♪ 思い出を美化し誇張し自叙伝の昔はみんな美しかった
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「言った」「言わない」「聞いてない」と、日常生活の中でも言い争いの基になる記憶。修正され、ねつ造迄されればもうどうしようもない。
カズオ・イシグロは小説のテーマの多くが「記憶」であることは知られています。確かに記憶は様々な角度からみても面白い問題を含んでいて、小説には持って来いの題材なのかも知れません。
政治家が「記憶にございません。」と白を切ることが出来るのも、記憶というその個人的な領域には誰も足を踏み入れることが出来ないことを逆手に取った詭弁なのでしょう。
小説では、過去と現在を入り混ぜて書かれることがよくあります。その過去と現在を幾らでも操作できるのを利用して推理小説など書かれた日には、そりゃあもう訳の分からない世界に引きずり込まれてのラビリンスだ。記憶と時間。これがミステリーの鍵になる。
多重人格者は、深刻な虐めや長期にわたる虐待などで精神的に追い詰められた結果、危機感から脳の防衛反応として、架空の人物が複数生み出され構築されるのだそうです。美化する代わりに別の人格に成りすます。究極の変身術。
別の人格が現れた場面に居合わせた人にとって、本人にはまったく自覚がないことだけに余計怖い。次々と別人格が現れるのだから狂人・気違いと思われるばかり。脳とは恐ろしきものなり。
しかし、記憶は人体の各部、骨か筋肉が海馬に作用していることが分かって来ていることから考えると、人体全体が記憶には関わりがあるのかも知れない。五感共々一体となった記憶装置なのかも。
ますます機械任せとなってゆく人間社会。記憶も機械に置き換えるようになっている。何でもかんでもAIに任せ、脳さえも使わなくなっていく。記憶力も判断力もない人間なんて、AIの僕(しもべ)になるしかないでしょう。
機械が目を光らせ記録し分析し判断する。人間が考えそうなことは瞬時に分かって、その裏を突くことだって可能になる。たった一行の書き間違いから、AI自身が判断して記録を改ざんするようなことだって起こらないとも限らない。
ゲノム操作が始まっている以上、その理論の応用がAIにも及ぶ。嗚呼、思っただけでも空恐ろしい。
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