♪ スポーツは一途な遊びストイックを真面目と解する人と観ている
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普段からこの横尾氏のツイートに同じ様な思いをしている私としては、いたく共感しています。
「表現の不自由展」に関しては、賛否両論あってお互いが意見交換する場が設けられたりして、喧々諤々やれたことが最大の功績とだけ言っておきます。
アーティスト側の立場からすれば彼のいう意味は当然理解できる。岡本太郎のように「既存のものを破壊するのがアートである」という考え方に対して異論があるのは当然です。しかし、その絶対的な信念のもとに作品を制作・発表されてきたことでアートが生まれ続けて来られたのも事実です。何がアートかという問題はその既存のものをぶち壊すという意味が分からなければ成り立たない。
受け取る感覚はジャズに対するものと似たところがあって、最初から拒否反応を示してしまう人には絶対に理解できない。それは感覚的なもので、ジャズにもいろいろあるし一言で言い表すことは出来ない。食わず嫌いが頭ごなしに否定する傾向が強い。
知らないから簡単に否定できる。分かってくると無碍に否定できなくなる。そういうものは世の中にたくさんあって、それが後追いで科学や医学の発達で証明されたりする。アートにはそれを証明する手立てはないとしても、心理や精神的な部分に影響を与え、知らず知らずのうちに身近なものに変化を与えていることは否定できない。視覚、聴覚、味覚だけでなく触覚や嗅覚にだって関わって来ることです。
まあ、こんなことを書きだしたら話が尽きないので、最初に戻って「真面目すぎる」という点に絞ることにする。真面目過ぎる人というのは頑なで一所懸命なところがあって、傍にいると息が詰まってくる。そんなことどうでもいいじゃないのと思う事に妙にこだわって、その事がとても重要なことだと信じている。否定でもすれば向きになって反論してくる。もっと柔軟に対応すればいいものを、それが出来ない。
色んな価値観と色んな性格があり、色んなものが複雑に混ざり合っている。その多様性の中で諸々は常に変化しているのに、決まり切った固定観念で生きているなんて「石ころ」とおんなじだ。高度に脳を発達させてきた人間なのに、その事に気付かない状態を「真面目」と定義したい。欧米では「真面目」はマイナス要素であって美徳でも何でもない。日本人にとっては「不真面目」が最も苦手で「真面目」でいるほうが楽なのかも知れない。唯一、大阪には例外として、いい意味の不真面目が残っているように思う。だから大阪が好きだ。
「真面目」からは何も生まれない気がする。水の様に変幻自在しながら融通無碍に生きていくが理想でしょうか。
坂口安吾「堕落論」をもう一度読み返すのもいいかと・・・。「自由」に「不自由さ」を感じるのも「真面目」さゆえのことだと思えてならない今日この頃です。
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