♪ うち遊ぶ仔猫の額の上あたり光りて星の生まれゆくかも
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「遊び」がいかに重要であるか、アメリカで研究が進められている。暴力的な衝動を抑えられない性格には、幼い頃の遊びの欠如が関係しているという報告なされている。
幼少期に兄弟や仲間と取っ組み合いをしたりして、とにかくよく遊ぶと前頭葉(感情や思考に深く関係する)が発達することが分かっている。ネズミの実験では、よく遊ばせたネズミを全く知らないネズミと一緒にするとすぐに慣れて一緒に遊ぶようになるのに対し、まったく遊ばせなかったネズミはそうならなかったという。ストレスを感じて、寄り付こうとしないのだ。
今、我が家にいる2匹の猫は両方とも、幼少期に捨てられて親や兄弟から離れてしまった猫だ。生後5カ月ほどのアランは遊びたい盛り。しかし、同じ年頃の仔猫と遊ぶことが出来ないため、ピピにそれを求めて飛び掛かっていったりする。が、8歳のピピにはストレスとしか感じることが出来ず、逃げ回っているばかりだ。関係性が上手く作れないのだ。
今までは考えられなかったような奇妙で凶悪な犯罪が増えている。赤ん坊や子供を平気で殺す。無差別殺人然り。昔からある怨恨殺人も含めて、「親の愛情不足」だろうと私はずっと思っていたが、どうやらそれに加えて「幼少期に遊びをする環境になかった」ことを加える必要がありそうだ。
この二つは重なって起こることが多いだろう。そういう環境に置かれて育つと本人の意思に関わらず、知ら知らずに内奥に危険をはらんだ性格を持ってしまうという事。感情がコントロールできず直ぐに切れて、抑制の利かないままに暴走してしまう。
感情や思考に深く関係する前頭葉の発達がなければ、人間らしい性格や人格の形成は難しいということ。
ホモ・ルーデンスを書いたホイジンガは、「遊びは文化よりも古くホモ・ファーベル(作る人)よりもホモ・ルーデンス(遊ぶ人)の方が先にある」といい、「ありあまる生命力の過剰をどこかに放出するもの、それが遊びだ」と言っている。
軟弱になった現代人は、その「遊ぶこと」の重要性をどこかに押しやってしまっている。ケガもせず痛みも知らずに過ごすことに重点が置かれ、“最も人間性の礎になる遊びには危険も伴う” ことに目を向けようとしない。
アメリカの今の子供たちは、屋外で遊ぶ時間は過去最低で一日に僅か4分から7分だという。日本でも似たようなものだろう。犯罪の危険が溢れているのに加えて、無難に子供を育てる風潮がますます子供を遊びから遠ざけている。
カナダの幼児教育者・エレンサンドセター女史は、「危ない遊び」というジャンルを体系化していて、保育所の遊び場をもっとスリルが味わえるものに作り直そうとしているとか。
私が子供だった頃は戦後の混乱期、とうぜん遊具も無ければ施設もない。自然の中で遊びを発見し作り出し、何でも遊びに変えてしまうのが日常だった。
土手に穴を掘る、落とし穴を作る、屋根から飛び降りる、垣根を端から端まで地面につかずに渡る、杉の木のてっぺんまで登る。馬跳び馬乗り、陣取り合戦、鬼ごっこ、缶蹴り、紙鉄砲や木の実鉄砲、鉄の輪の駒回し、狭い神社後で草野球などなど、危険も多かったが大したケガもせずに済んでいた。
仔猫のアランを見ていて、「ああこんなにエネルギーに満ち溢れて、その発散の場がないという事がどれほど不幸なことか」を思わずにいられない。可哀想なことだ。
子どもを田舎で育てるため、地方に転居する家族が徐々ではあるが増えているようだ。そういうのがトレンドになることが良い事なのかどうか分からないが、無から有を生み出すことの喜びを知ったら、ただ消費するだけの生活の味気なさを思い知るだろう。
「満たされているが故に不幸な子供たち」。最低限、電気と水があれば生きられるわけで、そういう生活が出来るように人間は出来上がっている。その溢れるばかりの能力の極々わずかしか使っていない。その反動が様々な症状や病気となって表れている。
人間って、欲の深いモンスターだとつくづく思う。
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