♪ 風信子(ヒヤシンス)更地に雨の光る朝 友への手紙えんぴつで書く
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私は毎日、短歌を詠んでブログにアップし始めたのが、2006年の5月8日だった。ちょっとだけ書かなかった日がある様な気がするがほぼ毎日続けて来た。仕事で書き始めたわけでもなく、自分の日記とカタルシスのために書いているので、辛いと思った事はない。書くものが無くて困るという経験もあまりなかったように思う。
自分の「日記は日々の生活の記録」だと限定してしまわず、興味・感心のあるものを書く。心が関わっているのだから全部自分の中の出来事だと思っているので、書くことは幾らでもある。生きている以上直接、間接を問わず、自分の周りには何かしら起こる。それに関心があれば書くし、興味がなければ書かないだけのこと。
15年に渡って、短歌と日記風の文章を書き続けてきて、これからも書き続けていくとする。そうして残されたものの全体を通して見れば、私という人間そのものが年輪となって現れて来る。自分の価値観や思考、こだわりや好き嫌いなど思ったことをそのまま書くので、一個人の貴重な記録になるんじゃないだろうか。しかし、必ずしも書きたい事のすべてが書き切れているわけではない。内容的には中途半端な部分もあるが、それはそれで良しとします。
こうして文章にすることで分かって来ることも多い。不明な点は調べるし、新しい発見や出会いもある。それらの積み重ねが年齢と合わさって、見えなかった稜線がくっきりと姿を現すようになる。それが楽しくて書き続けていられるのかも知れない。創作とは違うので、書くことで悩むことはないし、評価を気にする必要もない。
作家に自殺する人が多いのは何故なのかと思うことがある。
主なところでは、有島武郎、芥川龍之介、金子みすゞ、生田春月、牧野信一、太宰治、田中英光、火野葦平、岸上大作、三島由紀夫、川端康成、森村桂 などですがその理由はまちまちで、一概に特別多いということも出来ないようです。他の業種や職業も同じように自死する人は多いですから。
また、同じ表現者でも画家や彫刻家に自殺する人はまれで、カタルシスがそういう負のスパイラルに向かわせることを防いでいる気がします。
小説は、嘘をいかに本当らしく書くかをそう思わせずに読ませる文学。修辞テクニックによって昇華させ、事実以上に価値のあるものとして成り立っている。作家は、脳内で虚と実、他と自がない交ぜになって齟齬を招くことということがあるのかも知れない。自己を反映させながら虚を構築し、思想までを反映させようとするといずれ行き詰ってしまうでしょう。
あらすじと心の機微を絡ませ、時間軸をバラバラにして複雑そうに見せるタイプの小説を書いている分には、それほど大きな問題は生まれません。
書くことの意味は、「事実と真実は違う」「感じると分かるは違う」というところにあるのかも知れない。それが核になっていて、書くことそのものが楽しければそれでいい。言葉は、自分の中に溜まっている澱のようなものを排出する道具として、エッセイや短歌にしたりして心身をニュートラルを保つのに役に立つ。
「書こうとして何も浮かばずとも、机の前に座ることが大切」と吉本隆明が言ったように、私も自分の内面と向き合う時間を持つことはとても重要なことだと思います。
コロナ禍によってその機会が増え、「単純に孤独とよんで忌み嫌ってきた “独りの時間” を、悪いことなどではないので、 “もっと独りを楽しみましょう” 」と言われるようになりました。本当にそうだと思います。
皆さん時間を作って、「エッセイなんか 書いてみません!?」
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