♪ 梅雨晴れの五月つごもり朝九時の重機の音が未来を告げる
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ブログ日記の毎日のアクセスレポートには、アクセス数の順にページ名が表示されるので、そこに表示された過去のページに飛んで、読み返してみることがある。おお、10年前はこんな事を考えていたのかとか、こんな事が有ったのかとか、貴重な記述も結構あって、忘れてしまっている自分の過去に驚いたり感心したりする。
また、そこに載っている短歌を読むと、その時の情景や心情がありありと浮かんでくる。
書いて置いてよかったと思うと同時に、鮮度を失いつつある自分が今しなければならないことを再認識するきっかけにもなる。
「歌を詠むというのは過去へ流れ去って行く時間に錘を付け、無意識のうちに自分の外側を過ぎてゆく時間に楔を打ち込むことだ」永田和宏
文章だけではこうはいかないだろう。何をテーマにしてどう詠むか。その日の材料をテーブルに並べ、そのどれを使ってどんな料理を作るか。それを決める過程において思いめぐらす様々なことがらが、心と言葉のやり取りの中で磨かれ、シェイプアップされながら薄紙を重ねるように記憶されていく。
「過去をより遠くまで振り返る事ができれば、未来もそれだけ遠くまで見渡せる」チャーチル
歴史を知ることは未来を知る事でもあるけれど、自分という歴史を振り返ることも時には必要だと思わせられる。死んだ子の歳を数えるようなことではなく、その時々の地層や年輪に刻まれている貴重な体験の意味を客観的に眺めてみる。瑕疵と悔恨、無念と未練とかの負の層をしっかりと包み込んでいる、薄くも意味あるたくさんの層が見える。
生き越しのすべてが愛おしいと思えてくると同時に、メビウスの輪のように自分の近未来を見通すことに繋がっていく。
「いっそ『記録』は過去ではなく未来に属していると考えたらどうだろう」畠山直哉(写真家)
シャッターを押すことは何かに導かれていて、必然性を感じるという。現在を撮ってその瞬間に過去になっていく写真は、はからずも未来が関わっているのではないかと写真家は考える。「現在」にはすでに未来が内包されていて、それが写真に写し込まれるというのです。
小説の世界でも後になって、その時に起こっていることにあまりにも似通っている内容に、未来を予見していたのではないかと言われることがある。
「前だけを見て生きて行こう」なんてことを思う今日この頃ですが、過去があってこその思いであって、過去を捨て去ることは出来ないしそんなことは出来はしない。
こんな事を書き出したら短歌なんか詠めそうになくなってきたけれど、永田和宏の言葉に従って、流れ去っていく時間に楔を打ち込んでみよう。それは決して無意味な行為ではないはずです。この5月最後というの日に・・
目の前の更地の境界に造成工事用の杭が打たれ、道路となる位置がはっきりして来た。
今朝は下水の配管の位置を調べるために重機が入り、いよいよ工事が本格化する前触れの音が響いている。
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