♪ 深奥に刺さりしままの棘色の鳩羽鼠の夜がふけてゆく
どこかに収まるとか何かに所属するとかが苦手で、ずっとそういうものから離れて生きてきた。その理由の一つにこの「誰かに評価されるというのは、裏を返せばその人の想像力の範囲内に体よく収められること」というのが確かにあった。
それをうまく利用し、人心をつかんで世の中を渡り歩いてゆくことが、本当は大事なことなのだと分っていてもそれができない。損得を考えれば損に決まっている。馬鹿だと言われればそうだろう。
なんでこうも融通が利かない頑迷な人間になったのかと思うし、自分は異星人かと思うような時さえある。
「人の想像力を超えていく」それは異端でもあり、均質を良しとする日本では異質な存在でもある。才能と言えるような何か(自覚がないにしても)がなければ到底認められることはないし、よほどの覚悟と努力がいる。もしそういうものがないと思うなら素直に我をを抑えて、周りに溶け込む努力をするのが普通なのかもしれない。
しかし、自分という一個の唯一無二の存在を意識すればするほど、単純に誰かと比べられるのが苦痛になる。その反面、自分の存在を認めてもらいたいという意識は消すことはできないので、心には齟齬が生まれる。その葛藤と打ち勝って、ようやく心のバランスがとれる。しかし、それはとても不安定で時にバランスを崩し、鬱屈のゾーンへ落ち込むことになる。
でもしかし、他者とのかかわりの中で自分の存在を自覚するという条理からは逃れられず、何らかの関りを持ちたくもなってくる。平静の何気ない関りの積み重ねの中で培われるものをすっ飛ばして、脈略もなく突然に自己存在をアピールするような不自然な行動をとっては不審がられるばかり。
「自分がだれか別の人の無視できない対象」になれなければ、生きていることの意味さえも失いかねない。鏡としての他人を通してようやく自分というものが見える。自己の存在を知る唯一の方法だという。他者との関りが持てなくなると心がゆがんだ、うまくコミュニケーションが取れない人になってしまう。心と感情は、他者あって初めて成立するものらしい。
無人島でたった一人で生きてゆくことがどれだけ大変なことかが、想像できるというもの。
無人島に一つだけ持って行っていいと言われたとき、何を持っていきますか?
「司馬遼太郎」が『歎異抄』だと言ったのは有名な話ですが、私なら「百科事典」なんて思っていたことがありました。短期間ならまだしも、ずっと一人で生きてゆくなんて人間にはできないでしょう。脳が許してくれない気がします。心が崩壊してしまうんじゃないだろうか。
時々、世間を騒がせる犯罪の何割かは、不在の自分を取り戻そうとして起こされる事件だろうと思われます。自己否定されることが存在をも否定されることにつながっていて、耐え切れずに心が爆発した状態とでも言いましょうか。
私も、下手をするとそういう方向にゆく可能性がないとも言い切れない。幸いにも話をするのが好きだし、嫌われれもいいと思う反面、嫌われたくないという別の顔も持っている。二面性を持つことを自覚しながら、それを否定しなことが重要でしょう。
人は一人では生きてゆけない。二面性を持っていないと生きてゆけない。
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