♪ トンネルに入(い)れば現れまた消える景色ばかりが過ぎ去ってゆく
夜中に目を覚まし、次男の冬陽のことを考えていたら眠れなくなった。今、ちょうど4時になったところ。
36歳になるも、未だに独身。あまり積極的な方じゃなく、出会いがないために相手が見つからないのだろう。決して独身主義というわけでもない。会社の後輩と付き合っていたことがあったが、結局は分かれてしまったらしい。
今は、家から出て会社の近くに部屋を借り、一人住まいしている。しかし、何故か住所変更をしておらず、その理由がよく分からない。昨日、用事があって自宅に帰ってきたが何だか寂しそうに見えた。あまりしゃべらないので何を考えているのかよく分からない。こちらから根掘り葉掘り聞きだすのも気が引ける。自分がされて嫌なことはしたくないので、そういうことをあまりしてこなかった
その点、家内は女だから細々したことを話し掛けている。なんとなく会話をしてはいるが、表面的なことばかりで心の中の思いのたけを話しているわけでもない。
私も話をしたいと思っているのに、本心を語り合う糸口が見つからない。私自身、他人とコミュニケーションをとるのが苦手で、人心掌握という大事な能力が欠けている。何故そうなったかを考えてみることがある。三兄弟の真ん中で、いわゆるサンドイッチ現象から来る悪い性格が根底にあって、それをずっと引きずっているせいだ。
親に対する不信感があり、父親が嫌いだった。サンドイッチのせいか可愛がってもらった記憶が無い。何を聞いても理想論しか言わず、心から接してくれているという実感が持てなかった。何かから逃げているようで、愛情というものを感じることが出来なかった。
その父親不信がそのまま自分の性格になっている。人間不信という歪なこころを持ったまま大きくなった。対人恐怖症的なものもあって、自分でもその厄介な性格を持て余し、ただただ内向的で自分を出さない、付き合いにくい嫌な人になっていった。
そういう人間が子どもとどう接すればいいのか。スポーツでも音楽でも習ったことは教えることが出来るけれど、その経験がないとどう伝えればいいのかが分からない。「自分はそういう風に育ったので、お前たちにもそれが出来ない」と子供に言ったことがある。事実だとしても言ってはいけない事だったと思う。そんな親に育てられた子供が、社交的で開けっ広げな子明るい子に育つわけがない。
次男が何故、住所変更をしないのか。その理由が分かったような気がする。親子の関係性が出来ておらず、未熟な未解決のまま引きずっているからではないか? きっぱりとけじめをつけることが出来ず、何かを求め続けているんじゃないか?
そういう思いに行きあたって “羅針盤のない船” の様にさ迷っている姿が浮かんできた。自分の心にもある疎外感も、まさしくそういうところから来ている気がする。
もう遅いのかまだ間に合うのか、子どもととことん腹を割って話をしないといけない。1対1で向き合って、逃げることなく、全部をさらけ出してこちらの思いを伝えなければならない。
ずいぶん前になるが、会社に入社したての頃、研修で山梨のアパートにいた期間があった。その頃も同じような感傷的な思いがあって、手紙を出したことがある。しかし、転入届が出してなかったために手紙が届かない。その旨を本人に伝え、郵送してもらうようにしてようやく届いた。その時に何を書いたのか、ほとんど覚えていないが、表面的なことでお茶を濁していたような気がする。
私はずっと人間不信があって、友達付き合いが出来ず、何かの組織に入っても結局はそこから逃げ出してしまう。ずっとそんなことを繰り返してきた。腹を割って話せる友達はおらず、相談できる先輩もいない。そんな人間の末路は悲惨だろう。ある僧侶が、「人間嫌いの人恋し」と言っていたが、結局その人は自裁してしまった。自分もまさに「人間嫌いの人恋し」なのだ。そんな風に死んでいくのはあまりにも悲しいし、家族にも申し訳ない。
親父が神経衰弱、今でいうノイローゼになったことがあると、お袋が言っていたことがある。書生として働きながら苦学し、中央大学の法学部を出たものの司法試験に3度落ちて弁護士を断念。戦争があり、満州開拓義勇軍に志願したりもしている。目が悪かったために戦地へは行かずに済んだらしいが、軍隊生活は経験している。そこでの理不尽な体験を言葉少なに話したことがあった。私が小5?と中1の時、結核で療養所に入っていたこともある。
親父に「自分の体験したことを話してほしい」と頼んだことがある。「自分の体験など小さなものなので、役に立たない」とまともに向き合ってくれなかった。
A型のくその付く真面目人間で、野球の「敬遠」が許せないような人だった。あまり自分のことを話さないかったが、挫折の連続だったのじゃないだろうか。人間不信と社会への怨嗟のようなものがあって、親父を苦しめていたのだろう。この齢になってハッキリと見えてくるものがある。親父の人生を思うとやりきれなくなってくる。それが、結局は私に受け継がれているからだ。姉2人男3人の5兄妹で、A型は私だけだし、真面目で几帳面、足が早い、文字の格好とか、いろんなところが似ている。
真剣に親父に立ち向かっていったのは、3兄弟の中でも私だけだ。ひねくれ者で、扱いにくい子供だっただろう。親父は、私が一番心配だとお袋に言っていたらしい。
中2の新学期から、親父の定年で社宅を出され、転校を余儀なくされた。やっと自分をつかんで変われるかもしれないという矢先だった。ド田舎育ちで訛りもある。内向的な性格も災いして、無口で暗い中学校生活。勉強をする気にもならず、高校を選ぶにも情報がなく、適当に入った高校が飛んでもなくレベルが低かった。自尊心が傷ついて、やりきれなくここでも暗い学校生活。ここがそもそものボタンの掛け違いで、大間違いの始まりだった。
それからの人生は、自己否定の塊。何に対しても斜に構え、邪なアウトサイダー的偏屈者となっていく。そんな自分を変えるために、いろいろ足掻き続けてきたが、表面的に変わっても本質的な部分は何も変わらない。
いつの間にかこんな歳になって、未だに宙ぶらりんのまま。逃げ癖が付いていて、逃げてばっかりの人生だ。こんな自分を受け入れて、折り合いをつけながら正直に生きていくしかない。
機会を見つけて次男のアパートへ行き、じっくり膝を割って話をしよう。それをやらずに死ぬことはできない。
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