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カテゴリ:優鷹1242の日記・雑記
天安門事件、4日で20年=中国 天安門事件、4日で20年=中国 たまには世界史に関するお話でもしましょう。 こう見えても、僕は受験時代には世界史に命かけてましたからw 20年前の今日、あの悪名高き(第二次)天安門事件が起こりました。 当時の僕は生まれて2か月弱だったのでリアルタイムでは見ておらず、のちに高校の世界史で学びました。 1989年という年はまさに世界史が変わった一年でした。(日本も昭和から平成に変わった) ソ連の衛星国だった東欧諸国が一気に民主化をとげる「東欧革命」が起こり、 冷戦の象徴であったベルリンの壁が崩壊した年もこの1989年でした。 そして年末にはパパブッシュとゴルバチョフの会談によって、約40年以上続いた冷戦が終結しました。 そんな劇的な1年だった年にこの天安門事件が起こりました。 そもそものきっかけは民主派で学生から人気があった胡耀邦・前総書記(1987年に失脚)が亡くなり、 学生による追悼集会と民主化を求めて集まりだしたことが始まりである。 (これは周恩来首相が1976年に亡くなったのを機に第一次天安門事件が起こったのとよく似ている) 胡の後継者として総書記(No.1)に就任した趙紫陽は民主派。 一方、民主化に反対する保守派は李鵬が首相(No.2)になっていた。 このままの状況なら李など保守派を抑えて、趙は民主的政策を行える・・・ ところがそうは行かなかった。 なぜなら、トウ小平という「最高権力者」(No.0)がいたからだ。 (「トウ」の字が機種依存文字のため楽天では使えません。悪しからず) トウ小平は第一次事件を経験している中国共産党の重鎮である。(生涯3度の失脚を経験!) トウは急激な民主化をけん制していたものの、もともと第一次事件では民主的な意見を支持していた。 しかしトウは1989年の第二次事件のときには保守派を支持し、李鵬による武力弾圧を容認した。 なぜか? 実は第二次事件のときには中国人の学生だけではなく、少数民族(ウイグル族やチベット族など)の独立支持者が参加したからだ。 トウはこのまま民主化運動を認めてしまうと、多くの少数民族が独立を要求し、 中国が崩壊してしまうことを恐れた。トウ小平は中国共産党の権威を失われることに対しては敏感な態度であったのである。 というのが僕が去年教わった予備校での中国現代史。 そして20年。 中国は経済面でみれば(少なくても都市部では)先進国に肩を並べるほど発展している。 しかし政治面では中国共産党による支配がいまだに続いている。 中共は20年前だけではなく、「大躍進」や文化大革命などの中共にとって都合の悪い歴史から逃げ続けている。 だが、永久には逃げることはできない。都合の悪い歴史は隠し通せることはできない。 確かに今現在は中共という巨大な権力によって抑えつけられているが、そのようなやり方は必ずほころびが出るのは歴史がすでに教えてくれている。 同時に国民というのは政争によって犠牲を受けるべきではない存在である。 言ってしまえば、天安門事件は両方とも中共の内部での政争である。 中共の党員同士で争うならともかく、政争とは縁もない国民が犠牲になるのは許されないことである。 (中国の人口が13億人以上いるのに対して中共の党員は7000万人しかいない) その国の軍が国民に向かって銃を向けられる国はやっぱり政治的にどこかおかしい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
June 6, 2009 12:10:53 AM
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