優しい“悲しい”
幼少の頃、何年間も家族が庭に私のお墓を沢山作って手を合わせていたという記憶は何年もの間ずっと忘れていて、数日前突然出てきました。ビックリしたのとショックと、認めたくない気持ちとあまりにもの大きな強い感情に、1人で背負うのが辛くて苦しくてたまりませんでした。今日APがあって、先生や仲間に聞いてもらえました。1人で背負っていた荷をちょっとだけ一緒に持ってもらって少しだけラクになりました。今までと大きく違うと自覚できた事は、人に話してもその荷は自分の物だと自覚できている事。人に話したら、はいそれで終わり。もう私そんな荷物持たないよーとほっぽり投げる私はいなくなったこと。それと話しながら気付いた事は、感情の奥底にはとても神聖な私がいるそれを知ってから、そこにたどり着く事を目標にしてしまって、それを教えてくれた感情をないがしろにしていたと気付きました。その感情を感じるのもそこそこに、ずっとレイキをやっていて本来の自分につながりやすくなったのを喜んで、浮かれて、早く神聖な私に出会おう出会おうとしていました。そしてつながれるとそっちの方を一杯味わって、それで終わりにしていました。今日は沢山悲しい気持ち、惨めな気持ち、嫌な気持ちを感じました。じっくりと味わいました。するとその気持ちを抱えていた私がすーっと手を離して、その気持ちが離れていくと同時にその小さい私は死んでしまいました。その場に倒れて白くなって、消えていきました。その時に初めて、この子が今までこの気持ちをずっと大切に大切に持っていてくれたんだ、だから今こうして感じることができる。この子には私という世界しかないのに、苦しい、嫌だってずっと目を背けて逃げ回って悲しい気持ちを抱えながら孤独にまでさせていたんだと気付きました。1人で20年以上もそんな状態で耐えてきたんだと思うといとしくなって、あれほど嫌で手放したいと思っていた記憶もこの自分も感情も、一緒にいた時間が貴重でもっとずっと一緒にいたかったな、なんて気持ちも出てきました。そうしたら“悲しい”とキツいエネルギーを発していたのが、“優しい”悲しいになりました。まるで私を包み込むような。自分で思っていたよりもずっとずっとガイドさんの私は育っていました。とても立派に成長していました。ビックリでも素直に嬉しいそのまま私の中にいていいんだよ、と悲しい気持ちをそのまま受け入れるたらそれに喜んじゃって、「じゃあいつでも出てきてもいい?」なんて聞かれたので「えええ!!!?それは困るよ!!!!!それはまた今度レイキの先生の所に行った時に一緒に話し合おうよ」と言って(微妙に納得してないみたいだけど)、一旦ひいてもらいました。どうなる事やら(汗)