紙芝居 『 私はなんの病気? 』
カネミ油症の紙芝居を作れたらいいな♪ と 思って提案して その2か月後には ほぼ 出来てましたみんなで作ってみるつもりで提案しましたが・・・りょうこさんが、お一人で いっきに作られました。10才頃からの48年間の思いがこもっています。りょうこさんのご了解をいただき、ここに紹介をさせていただきます。 紙芝居 『 私は なんの病気? 』 画 と 文 りょうこ 私の生まれた所は、西日本の山間の村です。 なんのへんてつもない静かな村の山に家がありました。 とても夕焼けがきれいな所でした。 こどもの頃の私は、おてんばでした。 お母さんの作ってくれた着物を着て、 はだしで野山をかけ回っていました。 1958(昭和33)年2月生まれの私ですが、 暮らしぶりは まだまだ昔のまんまでした。 家の回りには 一年じゅう花が咲き、 くだものが実るように、ご先祖様や 祖父母、父母が手入れをしていました。 牛、猫、犬も飼っていて、まずしいながらも いろいろ、美しいものに囲まれていました。 3人姉妹の 真ん中の私は、とても食いしん坊でした。 ご飯をどれだけ いっぱい食べられるか姉と競争し、 姉は一杯、私は三杯、5つ下の妹は まだ少ししか 食べられませんが、うらやましそうに見ています。 おかずは、子どもたちにはどうにか よいものをと父母は工夫していました。 油物といえば、おやつに小麦粉をといて フライパンに油をしいて、クレープのような ものをたべました。絶品のオムレツ、たまに てんぷらや、野菜いためを食べました。 それらのおかずは、子どもたちだけが食べました。 油を使う料理はそれくらいしか思い出せません。 1968(昭和43)年の3月初め頃、 私は、40度の高熱を出して寝ていました。 おてんばでしたが、小さい頃から 40度の熱を出して一週間ほど寝ることはよくありました。 しかし、この時は、いつもと様子がちがいました。 いつも風邪をひいて熱が出ても、みな忙しいので いつものことだろうと、私一人で寝て治すのですが、 この時は4日目の夜、往診医、付き添いの看護師、祖父母、 父母が、なにか、私が死ぬのを見届けるかのように、 深刻な表情で、私の顔をじっと見ていました。 一週間がたって、ようやく熱がひき、学校に行く朝、 顔を洗って、鏡を見ると、顔にびっしりと 赤黒いにきびができていて、びっくりしました。 おそるおそる 祖父に なぜこうなったのだろう?と 聞くと、 祖父は『お医者さんが脂肪代謝不全と言っていた』とつぶやきました。 赤黒いにきびは、目、鼻の穴、耳の穴、口以外の あらゆる所、首、胸、背中、足にもできました。 そして、同じ時期にきょうだいにもできましたが、 私が一番 ひどかったです。 私は、顔を洗うたびに、洗ったら、いつのまにか シンデレラのようになるかもと期待していましたが、 その希望は、もろくも崩れ去りました。 10才のはじめから19才までの丸10年間、 全身の赤黒いにきびはとれませんでした。 このような症状が出たのは、私の地方では 私たち三姉妹だけでした。 私は、写真を撮るのがいやでした。 まわりのみんなは楽しく少女時代を送っていましたが、 私にとっては暗黒の時代でした。 初潮からひどい吐くような生理痛、 塊の出る多量出血に苦しみました。 忍耐強い母でさえも『陣痛よりひどい』 という言葉がもれました。 高校の卒業式を終えて、迎えた春休み、 うちの町にある美容院に顔の肌を 治せる方が来ているという話があり、 まず姉が一週間、試したところ、 すっかりきれいになってびっくりしました。 治療費が高いのは予想できましたが、 私もやってほしいと家族に頼みました。 5日間、顔の皮膚を、若いやさしそうな 女性の治療師さんが、あたたかく細かい シャワーのお湯で洗ってくれました。 目や耳や口に入らないようにしてくれたし、 なにも匂いはないし、痛みもないし、 べたつくこともないので、今もって 何の薬を使っていたのか不明ですが、 6日目には私も顔のにきびがすっかりとれました。 顔のにきびがとれたとたん、全身のにきびも消えました。 私の素顔、19才の春、助産婦になることは 高校進学時には決めていたので、早く社会に出て 働きたいと思っていました。 これまで少しでも丈夫になろうと、 漢方や食事療法だけでなく、 マラソンをしたり、農作業の手伝いをして、 体を鍛える努力をしてきましたが、 激しい生理痛は続き、助産婦学校卒業の頃には 体がむくんで、倒れることもしばしばでした。 ≪人間として生まれたからには、一か月でもいいから 人の役に立って死にたい≫と 思っていました。 学校を卒業し、東京の病院の産婦人科に就職しました。しかし、足はだるく、一か月のうちに快適に歩けるのは4日くらいでした。さっそうとみんなのように歩けたらいいなといつも思いました。仕事を始めて一か月たった頃、私はやっと自分の夢がかなって安心しました。≪一か月でもいいから人の役にたって死にたい≫しかし、このままだと25才には死ぬだろう。運がよければ結婚したいけれど、それには期待をしていませんでした。たまたま25才で東京の人と結婚しました。私は東京で3年修業したら、ふるさとに帰ろうと思っていましたが、3年目に東京の人と結婚することになりました。赤ちゃんが好きで助産婦になったのだから、子どもは5人くらいほしいと思っていました。しかし、死産、流産と続くので子どもはあきらめました。そのかわりに保育所で働くことにしました。43才の時、大きい子宮筋腫を全摘しました。しかし、体のあちこちに脂肪腫ができていました。 その後は、うつ病、全身の痛み、だるさ、硬直・・・正社員として働くのはむつかしい状況でした。見た目は元気にみえる私の体のため、私の体の苦痛の訴えを理解して下さる方はなく、悩みに悩んでいました。 思い悩んでいた時、手にしたある新聞で『カネミ油症救済法成立へ』の記事に思わずくぎづけになりました。2012(平成24)年8月3日のことです。被害者の方の証言を読むと、症状が私とよく似ている、私は、カネミ油症被害者ではないか?と思い、いろいろ調べ、検査も受けましたが、結果は『未認定』でした。しかし、今、心強い支援して下さる方々、そして被害者の会の方に出会えました。どうか、私の紙しばいが、何の病気かで苦しんでいる方々に少しでも気づいていただき、声を発する機会となりますようにとの思いをこめて描きました。そして、もう一度、お聞きします。『私は、なんの病気でしょうか? 病名を、名医の方、教えて下さい』 (終わり)【カネミ油症のこと】 カネミ油症を考える 5.31 東京集会に参加して