人間は食物連鎖の頂点?【ベジタリアンの勉強室(14)】
Q:「あなた食物連鎖って分かっていないですね」と言われました。どのように答えたらいいのでしょう?A:あ、ぼく自身も最近同じ経験しましたよ?町の健康診断の結果をもらって、その後栄養士?(だと思う)から健康相談を受けました。ぼくがヴィーガンだと知ると、困ってしまっていました。「人間は食物連鎖の頂点にいるんですから肉は食べていいんですよ」な~んてことをおっしゃる。この、「食物連鎖の頂点にいるから肉を食っていい、食うべきだ」というのは以前からなんだか変だなぁ~?って思ってはいましたが、あまり気に留めないできました。でもぼく自身がそう言われたので、あれこれ考えを巡らせてみました。1.その食物連鎖を教えて下さい。どういう風に連鎖しているのですか?と、逆に質問してみて下さい。たぶん答えに窮すると思うんですよね?他にはこんな質問や意見はいかがでしょう?2.工場畜産で人工的(無理矢理)に産ませて肥育して屠殺・解体した動物の肉を食べることがどうして食物連鎖と言えるのですか?3.食物連鎖の頂点なら、人間は肉食動物を食べるべきである。草食動物は食物連鎖の中間的存在なのだから食べるべきではない。よって野菜も果物もあらゆる植物性食品も食べるべきではない。5.食物連鎖はその地域に生息する動植物の狭い範囲でしか行われません。例えば、陸上の生物では、草の葉をバッタが食べる→バッタをカマキリが食べる→カマキリを小鳥が食べる→小鳥をタカが食べる→?(ウィキペディアより)では人間はタカ狩りをして食べますか?ここではタカが食物連鎖の頂点なのです。草をシマウマが食べる→シマウマをライオンが食べる→?ライオンを人間が食べますか? 食べませんよね?だからサバンナではライオンが食物連鎖の頂点なのです。草をゾウが食べる→?食物連鎖は長々と続くものではありません。どこかでとぎれます。しかも意外にすぐにとぎれます。(長くても5つくらいの連鎖で)それを「人間が食物連鎖の頂点」というのは人間のおごりであり、錯覚であり、間違いなのです。さらに『死体の晩餐』(ヘルムート・F・カプラン著/同時代社)から抜粋しますね。参考にしてください。┏━━━━『死体の晩餐』P.32~36━━━━━┓【弱肉強食の矛盾】「動物だって殺しあう。肉食獣は草食獣を殺して食べる。人が動物を食べるのは食物連鎖の正しい行為だ」というのが、肉食賛成派の意見です。でもこの考えは矛盾しています。彼らは人間を、万物の霊長、地上でただひとつの特別な理性のある種族だと思っています。にもかかわらず、食事のことになると急に、人間も動物の一種にすぎない、動物とまったく同じ種だと言いはじめる訳です。人間と動物は違います。肉食獣は肉を食べなければ死にます。人間は雑食獣ですから、肉はなくても健康に問題はありません。また、人間は食事を選ぶことができますが、野生動物の生活にそんな余裕はありません。ピーター・シンガーも言いました。「何を食べるか選ぶときの選択の責任が生まれる。選択できない生き物の真似をしたところで、人間は選択の責任から逃げたことにはならない」動物は道徳を持っていません。動物をわたしたちの道徳モデルにするのは変です。持っていないものを真似することはできませんからね。ライナー・マリア・リルケも言いました。「人間が自分の残酷さを言い訳するのに、サバンナの残酷さを隠れ蓑(みの)にするのはいいかげんにしてほしい。シマウマを倒すライオンは、肉がなければ生きていけない。人間とちがって悪意も罪もない。なぜ事実を悟れないのですか」と。コンラード・ロレンツも言いました。「人間とちがって動物は、善悪という概念がない。わかっていてわざと悪の選択をすることはない」と。肉食しなくてもいいのに意志で肉食を選んでいる人間とは土台がちがうということです。なかには、動物にも道徳はあると言う人もいますね。そうかもしれません。でも、あってもなくても、たいした問題じゃないことをこれからご説明します。まず、動物に道徳という言葉を使うのが、ちょっとおかしいです。道徳かも、と思わせることを動物がすることはありますけれど、人間の道徳観とまったく同じものを持っているとは言い難いです。たとえまったく同じ道徳があったとしても、それは肉食の言い訳にはなりません。なぜ雑食の人間が、肉食獣の真似をしなければならないのでしょう。地上には他にたくさんの生き物がいます。昆虫、植物、草食獣の真似はしないのに、なぜ肉食獣だけを真似たがるのでしょう。それもどうしても肉を食べたいのなら、そして人間を万物の霊長と思うなら、なぜ、人食い人種の真似をしないのでしょう。何かが間違ってること、わかりますか?大切なのは、動物に道徳観があるかどうかじゃありません。人間にはたしかに道徳があること、食べ物を選べること、自由に行動できることがポイントです。人間が「考える葦」ならば、他人の真似なんかしないで自分らしく生きていいのです。そのかわり、自由と責任はワンセットです。どんな行動をしようとあなたの自由です。そしてその行動から起きるものはあなたの責任です。もちろん弱肉強食の「強者の権利」を選ぶのも自由です。でもそれは、あなたがわざわざ殺しを選んだのだということも、わかってくださいね。強者の権利という考えは、自然界のルールのひとつです。でも、あまり人間らしいルールではありません。有史以来、人間はこの強者の権利のルールを揚げて、たくさんの殺し合いをしてきました。戦争をして街や命をただ壊し、大勢の人々を絶望させてきました。もしもあなたが弱肉強食を正しいと思うなら、あなたの家族が戦争で殺されても、当然だと納得しなければいけません。でも、これ、本当に自然の摂理でしょうか。もしそうなら、なぜ人は平和を好むのでしょう。争いのない優しい人間関係や、世界平和を望むのでしょう?強者の権利は、自然界のルールのひとつですけど、道徳的にも正しいとはかぎりません。もし正しいなら、わたしたちは、自然災害から身を守ってはいけません。弱い人、貧しい人を、助けてもいけません。運の悪い弱い者は死ぬべきだとするのが、弱肉強食だからです。もちろん学校にも行ってもいけないし、芸術を楽しんでもいけません。モラルのない弱肉強食とは、人間らしさを失って獣になることです。ゴットハルト・M・トイチェの言葉です。「権力があるからといって、道徳上権利があるとは限らない。」人殺しできる腕力があっても、人殺ししていいわけではないことは、倫理の上でも法律の上でもうたわれています。なのに、食事の時にだけ、強者の権利、野蛮な戦争屋が顔をのぞかせるのは、なぜでしょう。強者の権利は、腕力があれば人殺しをしてもいいという理屈です。肉食の罪をごまかすためのエゴイストの言い訳です。┗━━『死体の晩餐』━━━━━━━━━━━━━┛【関連ページ】http://plaza.rakuten.co.jp/healthycyuunen/diary/200611060000/