カテゴリ:エッセーっぽい匂い(茨城・家族系物)
茨城観光第二弾。 さて、竜神大吊橋の次に向かったのが 「西山荘」。 こちらは先ほどの橋に比べればまともな所です。 水戸と言ったら「水戸黄門」です。 茨城の観光名所や、 最悪「茨城」がどこにあるのか知らなくても、 水戸黄門を知らない人はいないと思います。 ここでちょっと歴史のお勉強。 水戸黄門、徳川光圀公は その名の通り、水戸徳川の人間です。 徳川幕府を開いた家康は、 尾張・紀伊・水戸 の3箇所に、自分の息子を配置し、 徳川御三家を作ります。 水戸徳川の初代藩主が、 光圀の父親です。 光圀は二代目水戸徳川藩主です。 つまり、光圀は家康の孫にあたります。 徳川三代将軍家光は、 光圀の従兄弟、ということです。 ちなみに徳川三代将軍家光の乳母は、 あの有名な春日局です。 光圀と家光が従兄弟とは言っても、 子沢山の時代ですので、 年代的なずれが大きく、 家光は家康の年上の方の孫、 光圀は家康の年下の方の孫、 にあたり、 実際光圀が水戸徳川をおさめていたのは、 四代将軍家綱や、 五代将軍綱吉の頃だったそうな。 その光圀が第一線を退いて、 いわゆる「ご隠居様」の身分になってから 過ごしていたのが、 この「西山荘」です。 ちょうど「水戸黄門」で、 助さん格さんと一緒に、 越後の縮緬問屋の主人・光右衛門 として旅をしてる頃の話です。 ちなみに、実際の光圀は、 諸国漫遊とかやってません。 「水戸黄門」は、あくまで創作話です。 さて、西山壮は光圀が過ごしていた建物が、 そのままに残されています。 非常に質素な建物で、 「天下の副将軍」と呼ばれた人が 過ごしていた所とは思えません。 そう、「水戸黄門」の中で、あの決め台詞 「こちらにおわすお方を どなたと心得る。 おそれ多くも先の副将軍 水戸光圀公にあらせられるぞ。」 と言いますよね。 実は公の職としては 「副将軍」という職はなかったのです。 徳川御三家を作った由来は、 「徳川の血を絶やさぬように」 という家康の配慮でした。 「江戸徳川から将軍の座につくものが出なかった場合、 尾張・紀伊の徳川より、 将軍を選出するように。」 とのことだったのです。 では、水戸徳川の役目はなんだったのか? 尾張・紀伊より選出される将軍についての、 お目付け役が水戸徳川の役目だったのです。 水戸徳川は、徳川本家の補佐としての役目、 ということで、参勤交代はしなくていい代わりに、 「水戸徳川からは将軍は出さない」 と家康が決めたのです。 水戸徳川はずっと補佐であり、 将軍職にはつけない、ということです。 ただし、将軍の補佐という役割から、 水戸藩主は「副将軍」という 呼ばれ方をしました。 公に決められた職は、あくまで 「水戸徳川藩主」 であり、 「副将軍」 は通称に近いものでした。 さらに言うと、 実は光圀は、 生まれてこない予定の人物だったのです。 光圀の母親、久子が懐妊した際、 光圀の父親、頼房が、 家臣に「久子に堕胎させるように」と命じました。 当時頼房の側室に、 非常に嫉妬深い女性がいて、 その側室に配慮したものだった、 と言われています。 しかし、堕胎の命を受けた家臣が、 久子を不憫に思い、 ひそかに自分のもとで、出産させたのです。 そこで生まれたのが 光圀だったそう。 生まれる予定じゃない人間が、 今の時代にドラマにまでなる人物に成長するわけですから、 分からないものです。 つづく。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006.06.23 16:35:09
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