大きな流れ見えない力
大きな流れは 人を飲み込む 人だけでなく 全てをも 人は それを 神の意志 と言う 神がいたとしても 神だけが 流れじゃない 人の意識の流れ 心の流れ それが 大きな流れ 神とは違う 強い流れ だから 神の慈悲は 通用しない 神の救いは 与えられない 神すらも 翻弄されている そんなのが 世の中の姿 就寝14時。起床22時半。・・・ぇ?ぁ、日に二度寝てる。以前、考えてたことを思い出してた。寝てて。夢の中で アレコレとあったような感じだけれどそれは よく 覚えてない。 夢の内容なんてのはね。「大きな流れ」というのは 誰でも感じたことはあると思う。自分の意志ではない、ナニモノかで動かされてるような社会や経済、様々なものが ナニモノかの意志で動いてるようなそんな感覚は 誰でもあるんじゃないかって思う。その正体は 人の意思。その集合体って考えればいいじゃん?予知・予言というものはある。 それは 1つの可能性。選択可能な 未来の1つ そう捉えればいい。警告を無視することで なにかが起きてしまうように警告を心に留めることで 起こりもしなかったといえるように。いまだきていない から 未来 と 書く。○○の予言なんてのが外れた などというのはそれを回避するように動いたから とも言える。「自分を守りたい」という基本的な本能が働いてそれが いくつも重なり合って 大きな流れに乗れば回避することができる のかもしれない。「自分」というのは 「自分だけ」という意味じゃない。自分を構成するものというのは 「自分」だけじゃないでしょ。家族であったり友人であったり会社・学校、仲間であったり様々なものがあってこそ 自分 が成り立つ。「自分を守る」とは、自分以外のそうしたものも守るということでそうした意識が膨大に集まれば 世界を守る になる。そんな流れの影響の1つが ソ連の崩壊 ともいえる。かつて冷戦といわれた状況は 分散された形でしかのこってない。朝鮮戦争やベトナム戦争は 実質的にはソ連VSアメリカ。というよりも 2つの大別された社会の対抗の縮図。大規模な対立は 全ての破壊をももたらす。ある「大予言」では 1999年に滅亡 というものがあった。起こらなかったとよく人は言う。なぜ・・・ユリウス暦(いわゆる西暦)の1999年なんだい? そういえば キリストって ユリウス暦元年生まれじゃないって知ってる? アレ、それよりも4年以上前に生まれたことになるんだょ。 その時にすでに死んでいる人間が生きていた時代に生まれた それが 聖書にも書いてあるんだ皇紀って知ってる?有名な零戦は皇紀の下二桁がゼロだから 零式 なんだょ。今年ユリウス暦2009年は 皇紀2669年。なにを基準にした 1999年なのか ということだょね。それよりも考えないといけないのはさ回避ではなく遅延ということも 流れによって起こるってこと。人は「歴史を繰り返す」ってこと。危険があるからそれを回避するためのことをしていてもそれをしているから安全が保たれているのに 勘違いして怠って 重大な大事故を起こす のは 遅延の例 でしょ。安全性がないなら 最初から使うななんていう人もいる。だったら 殺人の道具になる一切の刃物は使うな。他人の首を絞めて殺せる腕を切り落とせ。蹴り殺せる脚を、かみ殺せる顎を 切り落とせ。使い方を誤れば なんでも あらゆる意味での 凶器になる。今までに何度も その人が死ぬのは寿命 と書いた。それを訂正する気もないけれど それも大きな流れに乗ってること。よく 奇跡的に一命を なんていうことがある。でも、 実際には 絶命を妨害する流れがあっただけ。無意識にその危険を察知して回避しようとするのかもしれない。精神世界っていうのは距離感もなにもない。その回避行動に同調できる人がいれば 「奇跡」が起こるし「奇跡的な回復」が起こるかもしれないし。奇跡的な回復は 実際にはナニカ引き金があると思うんょ。無意識での行動だから 覚えていない というだけでね。回復した感激で 忘れてしまう のかもしれないけどさ。そうした 流れに翻弄されずに 死に至る なら 寿命。自殺をしようといたときに ナニカを思い浮かべて思いとどまる。自分だけの思いかもしれないし、そういた流れかもしれない。人は 他の人の 生きる道 に影響を与えて 変えられるしそうされるのを阻止することもできる。 ある程度はね。自然現象も一部は阻止できるはずのものだしね。近年流行の 局地的集中豪雨って 人為現象でしょ・・・。あれって空調の放熱などの過熱行動と排気ガスの影響でしょ。大気が極めて不安定な状況を作り出してそれが破られる いわば局所的に安定した状態になる からそこへ他の不安定部位が流れ込んでいく ようなもんじゃん。その不安定要素は 人為現象なわけだから。一部の津波被害の増幅も離岸流も人為現象だしさ。人は 自然現象すら 破壊してる。 ぃぁ 破壊できてる。ベクトルっていうものがある。質量がなくて方向性と大きさだけを持つものを言う。「力」という概念は ベクトルでしかない。それを受ける存在がいて 初めて 力 の存在を知る。質量があるものだけにかかるものじゃない。心・想い、意思・考えにも 質量はない。エネルギーもまた 質量があるわけでもない。(エネルギーと質量は可逆関係であって 質量とは エネルギーの1形態として表現されるべきものです)でも それらは 存在している。それを感知することもできる。質量がない エネルギーを感知できるでしょ。(温熱などがいい例)予知、それは 誰でも持っている能力。私利私欲概念があるから 正しく受け取れないだけ。そして それは 回避可能なものでもある ということ。時として 回避困難なもの というものもあるけれど回避不可能というわけじゃ決してない。多くの場合は 回避方法がわからなくて 現実になるだけ。そういう感覚に気付いた人を 覚醒 という人もいる。1つの形であって すべてがそうというわけでもない。優れた人が覚醒するかといえば そんなことの方が稀で実際には そうではない人の方が 多いはず。いくつかのものは 感覚器の異常・奇形でもたらされる。脳神経の異常でも もたらされる。それは 幻聴・幻覚ではなく 聴覚・視覚的イメージとしてもっと 違うものを捉えている ということも含めて言ってる。大脳は欠損した機能を補うために 他の部位が発達する。例えば、視覚欠損者は聴覚、嗅覚、触覚が異常なほど発達する。「普通である」とは そうした発達がない状態。なんでもそつなくできる とは そうした発達が一切ない。「普通である」とは なにもできない に 等しい。他の人間ができるのだから いる必要はない。それなのに「普通である」ことを そこにいる理由とする。おかしな話だょね。だから 「普通ではない」存在を敬遠したくなる。それは 普通でしかない自分が 排除されるから でしょ。誰でもが 得手不得手というものは あって当然。不得手があるということは それ以上に得手があること。得手に注目するのが 正しいやり方。不得手だけに注目するのは 愚かでしかない。などと ぶつぶつ 書きたくなったので 書いた。ユウ