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●宗教戦争
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●時間
朝、目を覚ます。 時刻は、午前2時半。 昨夜は、午後8時30分に床に入った。 さっと計算し、「だいじょうぶかな?」と。
このところ睡眠不足が慢性化している。 5時間では足りない。 6時間ならだいじょうぶ。
計算上では、一応6時間。 6時間、眠ったことになる。 が、それにしても午前2時半? 早すぎる?
寝室から居間に移り、パソコンを立ち上げる。 立ち上げて、いつものルーティーン。 が、そのときこう思う。 一度ネットを開くと、あっという間に1時間が過ぎてしまう、と。 いつものサイトを見て、あちこちのニュースを拾い見する。 たったそれだけのことなのだが、あっという間に1時間が過ぎてしまう。 今の今が、そうだ。 あっという間に、1時間が過ぎてしまった。 午前3時半!
●パソコンの使い分け
あわてて文書用のノートパソコンを立ち上げる。 (私はその用途に応じて、ノートパソコンを使い分けている。 文書用と物品購入用、それに一般のサーフィン用。 用途別に使い分けているというよりは、安全のため。 それにどれも故障している。
つまりそれぞれのノートパソコンの故障内容により、パソコンを使い分けている。 たとえば今、こうして文書を書いているノートパソコンは、「7」の文字が打てない。 故障というよりは、ボタンインコのピッピにキーを破壊されてしまった。 で、「7」については、そのつど「なな」と入力し、「7」に文字変換をして、使っている。
ほかに、物品購入用も、ファンクション・キーが2つ、破壊されている。 これもボタンインコに破壊されてしまった。 ピッピは、バカなくせに、そういうことにだけは、知恵が働く。 たとえば私がパソコンを使っているときは、パソコンに近寄ってこない。 背筋を伸ばして、遠巻きにパソコンの周りを歩く。 これみよがしに歩く。 が、瞬間、目を離したすきに、さっとやってきて、キーをバリバリとめくる。 まさに神業(かみわざ)。
こうして電子辞書も2台、破壊された。 タブレットの外付けキーボードも破壊された、などなど。 つまりキーボードの破壊程度に応じて、それぞれの用途別に、ノートパソコンを使い分けている。 ほかにもう一台あったが、修復不能なほどに、破壊されてしまった。
が、安全対策のため、ということになれば、物品購入用のパソコンだけは別にしたほうがよい。 今さら言うまでもないことだが・・・。
●雨
時刻は午前3時40分。 山の家。 森の中。 目下、はげしい雨が、家の屋根を叩いている。 窓の外のポンプを叩いている。 その音 が、パラパラと聞こえてくる。 で、こんなことを考えた。 大雨の最中に、突然、こんなことを考えた。
「宗教戦争は、怖い」と。
つまり戦争にも、3種類ある。 経済戦争、民族戦争、宗教戦争。 このうち宗教戦争だけは、異質。 信念に命をかける。 命をかける。 その命をかける分だけ、執拗、残酷、過激、長期化する。 たがいに容赦しない。 つまり相手を抹殺するまで、勝ち負けが決まらない。 仮に勝っても負けが決まっても、深い怨念だけが残る。
それに対して、経済戦争は、根が浅い。 もともと損得勘定で始まるので、勝っても負けても、そのまま。 わかりやすく言えば、「金の切れ目が、縁の切れ目」。
これは余談だが、「金(マネー)」の力は、弱い。 少なくとも人と人をつなぐ絆(きずな)にはならない。 まさに「金の切れ目が縁の切れ目」。 こんなことがあった。
●K先生
K先生は内科医。 K先生の妻は、耳鼻科医。 戦後、となりのS市で開業。 ともに評判の名医で、繁盛に繁盛を重ねた。
で、気がついてみると、・・・というより自然の成り行きでそうなったのだが、親戚縁者がみな、S市周辺に集まってくるようになった。 K先生は、もともとは東北出身。 K先生は、親類縁者の中でも、第一の出世頭(かしら) 面倒見のよいK先生を頼るうちに、そうなった。 それに比して、もともと生活力のない親類縁者が、K先生を頼るようになった。 頼って、S市に集まるようになった。
一方、K先生夫妻は、そうして親類縁者の面倒をみるのが、どこか生きがいにもなっていた。・・・ようだ。 親類縁者と会うたびに、そういう話になった。 お金の貸し借りの話になった。
で、やがてそれではすまなくなった。 そのうち、親類縁者の息子や娘のめんどうまでみるようになった。 学費までめんどうをみるようになった。
で、そのK先生は、15年ほど前に他界した。 ただ晩年の5年間だけは、自分が院長をしていた老人施設で、過ごした。 K先生は病院のほか、その近くで老人ホームも経営していた。 で、他界した。
そんな中、私はK先生の自叙伝、俳句集などの編集を手伝った。 そんな縁から、K先生の葬儀に呼ばれた。 その場で弔辞を読むことになった。
が、驚いたことに、ここで話した親類縁者の息子や娘はもちろんのこと、その親たちは葬儀には誰も来ていなかった。 K先生の妻、つまり奥さんに確認すると、生活の面倒をみていた親類縁者も、だれも来ていなかった。 K先生の妻は、さみしそうな顔をして、こう言った。
「それがね、林先生(K先生は、いつも私を先生と呼んでくれていた)、だれも来ていないのですよ。『一家心中する』とか『食べるものもない』とか、言って、いつもお金を借りにきていたのですが・・・」と。
私「ひとりも・・・ですか?」 妻「はい、ひとりも来ていません」と。
実のところ、私の従兄弟も似たような経験をしている。 詳しくは書けないが、従兄弟の父親を経由して、数千万円のお金がその従兄弟の叔父に流れていたという。 その叔父を、Y氏とする。 そのY氏は、40歳を過ぎる頃から、事実上の失業状態にあった。 そんなわけで、Y氏には息子が2人、娘が2人いたが、下2人の学費は、すべてその従兄弟が負担したことになる。 が、それだけではない。 Y氏は、あれこれその従兄弟に近づいてきては、今では二束三文の山林を、5倍から10倍の値段で、従兄弟に売りつけてきた。 従兄弟はY氏、つまり彼の叔父の言葉を信じて、それを買ってしまった。
が、その従兄弟、つまり価値のない山林を買って、Y氏を助けた従兄弟は今、親戚中で、まさに悪玉になっている。 私の耳にもそんな話が届いている。 で、従兄弟はこう言った。 「何度手紙を書いたのだが、なしのつぶて。電話をかけても、居留守を使って、電話には出なかった」と。
そんな中、従兄弟は地元の不動産業に話しかけた。 山林を売ろうとした。 が、「その価格では、売れません」と。 実際の価値も、下がり続けていた。 で、しかたないので新聞の折り込み広告に、販売の広告を入れた。 価格も、どれも購入時の10分の1以下にした。 残りの小さな土地については、あきらめた。 今時、雑木林など買う人などいない。 つまりそれが、かえってその従兄弟を悪玉にしてしまった。 新聞に折り込み広告を入れたのが、まずかった? 「実の叔父に恥をかかせた」と。
こういう不愉快な話は、こうして書くのも、不愉快。 読者諸氏にしても、そうだろう。 ただY氏は、私が知る限り、悪党ではない。 何度か会ったことがある。 会って話せば、ふつうの人以上に、やさしい。 人情も深い。 が、「金」が、Y氏を狂わせた? それにすべて終わったこと。 すんだこと。 ただこういうことは言える。
『金の力は弱い。その絆は、カスカスの綿のようなもの。人と、人をつなぐ絆にはならない』と。
さきのK先生の話にしても、その親類縁者たちは、K先生のおかげで生きのびることができた。 が、その親類縁者たちは、K先生からお金を借りても、その話は、家族には誰にもしない。 いわんや自分の息子や娘には話さない。 すべて(自分の手柄)にしてしまう。 そこで封印してしまう。 借金できるのも、実力のうち? だからその話は、K先生と、直接金を借りにきた人の間で、そのまま終わってしまったらしい。 つまり「借金するのも、自分が得た収入」ということになる。
(言うまでもなく、これは金を借りる人の、共通の心理ということになる。 たとえばその親類縁者の人にしても、自分の家族や息子や娘には、絶対に言わない。 「これはK先生から借りたお金だよ。恩を忘れてはいけないよ」などということは、絶対に言わない。 言えば、かえって自分の立場が悪くなる。
加えて本人自身も負い目があるのだろう。 当然のことながら、借金は借金。 あるいは逆に、K先生を悪者に仕立てることによって、自分の行為を正当化する? だから結果的に、葬儀には一人も来なかった!・・・ということになる。)
●宗教戦争
で、本論。
一方、宗教戦争は、その経済戦争とは対比関係にある。 言い換えると、宗教による人のつながりは、そうでない人には理解できないほど、濃密、強固。 先般もこんな話が伝わっている。
日本のA首相が、Xという男に背後から、銃撃され、そして亡くなった。 Xの言い分はこうだ。 Xの母親がTという宗教教団の信者になった。 家や土地を売り、1億円近いお金を、その宗教教団に献金した。 そのためXの家族は、経済的に困窮した。 その宗教教団を助けていたのが、A首相だったから、と。
その狙撃事件がきっかけで、Tという宗教団体が世間を騒がせるところとなった。 今の今も、その騒動はくすぶっているが・・・。
遠因は、ここにも書いたように、そのXという男の母親がTという宗教団体に、1億円近いお金を貢いでいたことだという。 が、ここで私には理解できない現象が起きた。
何でもその母親は、マスコミの取材に応じて、こう言ったという。 自分の息子がA首相を殺害したことには一言も触れないまま、こう言ったという。 一般世間に対してではなく、自分の属する教団に対して・・・?
「教団に迷惑をかけたことを、心からおわびします」と。
・・・つまりこれが宗教である。 宗教がもつ力?である。 ふつうの常識すら、通らなくなる。
●結論
で、結論。 今、中東では、その宗教戦争が起きている。 ユダヤ教vsイスラム教。 それだけに、同じ戦争でも、ことはそんな簡単なことではない。 あるいは一般の経済戦争をそのままあてはめて考えることはできない。
ここでは論じないが、ロシアvsウクライナも、単なる経済戦争ではない。 またそう考えてはいけない。 民族戦争である。
が、こうした戦争の本質を知らない人たちは、「なぜ?」と首をかしげる。 首をかしげているだけ。 というのも、経済戦争を基盤にして、こうした戦争をながめているからにほかならない。 中には、こんな国会議員もいる。 「どうせロシアには(経済的にも)勝ち目はないのだから、ウクライナも戦っても無駄ということを知るべき」「ウクライナは負けを認め、領土をロシアに渡せばよい」と。
まことにもって、「?」な論理だが、どうやら本人は、本気らしい。 戦争の最中にありながら、何度もロシア詣でまでしている。
・・・だからこう考えたらよい。
こうした宗教戦争や民族戦争は、100年、200年先に視点を置いて、考えてみる。 「100年後はどうなるか?」「200年後はどうなるか?」と。 そしてその視点から、「200年前は・・・」「100年前は・・・」と、考えてみる。 「200年前は、どうあるべきだったのか」「100年前はどうあるべきだったのか」と。 この両方の視点から、「今、2024年はどうあるるべきか」と考える。
宗教戦争を考えるときは、そういう視点で、ものを考える。 100年単位の、長いスパンで、ものを考える。
やりかたを間違えると、つまり性急に結論を急ぐと、怨念はいつまでも、いつまでもつづく。 民族戦争も同じ。 つづいていつまでも、いつまでも、その両方の人たちを苦しめる。 現在の日朝関係を例にあげるまでもない。 (2024年10月5日、朝記)
○教訓
お金を貸しても、貸した方は、「相手は私に感謝しているはず」と考える。 が、感謝などしていない。 「しめしめ、もっと取れるぞ」と。
身内でも、さらに国際的にも、これは世界の常識。
だから私のばあいは、こうしている。 人生において、何人かの人が、私のところに金を借りに来た。 そういうときは、私はその10分の1から3分の1ほどを、こう言って、手渡す。
「このお金はさしあげます。返さなくても結構です」と。
そしてあとは忘れる。
・・・だから日本は外国に莫大なお金を貸し付けている。 しかしその方法では、いくら助けても(?)、外国からは感謝されない。 逆に、かえって逆恨みされることにもなりかねない。
金(マネー)の力というのは、所詮、そんなもの。 (2024年10月4日、朝記)
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最終更新日
2024年10月04日 20時27分13秒
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