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●Way to Self Distinction 自滅への道
人間にとって「神」とは何か?
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どうして人間は、自ら自滅の道をたどろうとしているのか?
かつて私はオーストラリアにいたころ、ネズミの大群を見たことがある。 南オーストラリアの牧場にいたときのことだった。 ある朝、起きて庭に出てみると、そこはまさにネズミの大群。 はるか先から、反対のはるか先まで。 友人の牧場だけでも、10~20キロ四方。 その牧場が、一面、ネズミの大群で埋め尽くされていた。
といっても、誤解しないでほしい。 大群といっても、数平方メートルに、1~2匹いるか、いないか? 場所によっては、もっと少なかったかもしれない。 それにネズミといっても、大きさはハツカネズミ程度。 小さくて、それにかわいかった。 個性まではわからなかったが、それぞれのネズミが、それぞれてんでバラバラのことをしていた。
そのときの様子を、2000年ごろ、地元のC新聞社のコラムとして書いたことがる。 それがつぎの記事ということになる。
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たった一匹のネズミを求めて【26】
●牧場を襲った無数のネズミ
私は休暇になると、決まって、アデレ-ド市の近くにある友人の牧場へ行って、そこでいつも一、二週間を過ごした。「近く」といっても、数百キロは、離れている。広大な牧場で、彼の牧場だけでも浜松市の市街地より広い。その牧場でのこと。
ある朝起きてみると、牧場全体が、さざ波がさざめくように、波うっていた! 見ると、おびただしい数のネズミ、またネズミ。……と言っても、畳一枚ぐらいの広さに、一匹いるかいないかという程度。
しかも、それぞれのネズミに個性があった。農機具の間で遊んでいるのもいたし、干し草の間を出入りしているのもいた。あのパイドパイパ-の物語に出てくるネズミは、一列に並んで、皆、一方向を向いているように表現されるというのがふつうだが、そういうことはなかった。
が、友人も彼の両親も、平然としたもの。私が「農薬で駆除したら」と提案すると、「そんなことをすれば、自然のライフサイクルをこわすことになるから……」と。
農薬は羊の健康にも悪い影響を与える。こういうときのために、オーストラリアでは州による手厚い保障制度が発達している。が、私たちはネズミ退治をすることにした。方法は、こうだ。
まずドラム缶の中に水を入れ、その上に板切れを渡す。次に中央に腐ったチーズを置いておく。両側に登るための板を渡しておく。こうすると両側から無数のネズミが登ってきて、中央でぶつかり、そのままポトンポトンと、水の中に落ちる。が、何と言っても数が多い。私と友人は、そのネズミの死骸をスコップで、それこそ絶え間なく、すくい出さねばならなかった。
が、三日目の朝。起きてみると、今度は、ネズミたちはすっかり姿を消していた。友人に理由を聞くと、「土の中で眠っている間に伝染病で死んだか、あるいは集団で海へ向かったかのどちらかだ」と。伝染病で死んだというのはわかるが、集団で移動したという話は、即座には信じられなかった。移動したといっても、いつ誰が、そう命令したのか。
ネズミには、どれも個性があった。そこで私はスコップを取り出し、穴という穴を、次々と掘り返してみた。が、ネズミはおろか、その死骸もなかった。一匹ぐらい、いてもよさそうなものだとあちこちをさがしたが、一匹もいなかった。ネズミたちは、ある「力」によって、集団で移動していった。
●人間にも脳の同調作用?
私の研究テ-マの一つは、『戦前の日本人の法意識』。なぜに日本人は一億一丸となって、戦争に向かったか。また向かってしまったのかというテ-マだった。
が、たまたまその研究がデッドロックに乗りあげていた時期でもあった。あの全体主義は、心理学や社会学では説明できなかった。そんな中、このネズミの事件は、私に大きな衝撃を与えた。そこで私は、人間にも、ネズミに作用したような「力」が作用するのではないかと考えるようになった。
わかりやすく言えば、脳の同調作用のようなものだ。最近でもクロ-ン技術で生まれた二頭の牛が、壁で隔てられた別々の部屋で、同じような行動をすることが知られている。そういう「力」があると考えると、戦前の日本人の、あの集団性が理解できる。……できた。
この研究論文をまとめたとき、私の頭にもう一つの、考えが浮かんだ。それは私自身のことだが、「一匹のネズミになってやろう」という考えだった。「一匹ぐらい、まったくちがった生き方をする人間がいてもよいではないか。皆が集団移動をしても、私だけ別の方角に歩いてみる。私は、あえて、それになってやろう」と。日本ではちょうどそのころ、三島由紀夫が割腹自殺をしていた。
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●集団自殺
これはそのあとにわかったことだが、ネズミたちはそのまま南下。 アデレード湾へ向かい、そこで最後はみな、集団自殺をしたという。 数をふやしすぎたネズミは、そうなる。 それを同調作用というのなら、同調作用。 そういう同調作用があるのかどうかについては、いまだに解明されていないが、みな海に向かった。 海に入った。 みな、死んだ。
こうしてネズミたちはそれぞれ「個」のレベルを超えた。 説明のつかない「作用」で、自ら自然淘汰のサイクルの中で姿を消した。 あるいは自らの脳の奥深くにインプットされた本能の作用で、姿を消した。
が、それはネズミの話。 ネズミはネズミ。 人間ではない。 また一気に、人間もまた・・・というように考えることは正しくない。 が、同時に、では人間はネズミと、どこがどうちがうというのか。
一説によると、人間もまた、あの恐竜時代には小さなネズミのような存在だったという。 その小さなネズミが、1億年以上という年月を経て、現代の人間になった。 進化に進化を重ねたとはいうが、ネズミはネズミ。 本能の、そのまた奥にある基本的な本能が、人間にもあると考えても、何もおかしくない。
●人間世界
さあ、見るがよい。 狂ったこの人間世界を見るがよい。 欲望の奴隷と化し、明けても暮れても、金、金、金・・・。 名誉に地位に財産。 競争と出世、貪欲と傲慢。 自分勝手で自己中心的。 生まれたときから子どもは欲望漬け。 「あれがほしい」「これがほしい」と。
親は親で、子どもの教育に明け暮れ、子どもの尻をたたく。 その欲望には際限がない。 ほんの少しでもその片鱗にたどりつくと、「もっと」「もっと」としがみつく。 巨億の富を得た人ですら、「もっと」「もっと」としがみつく。
その中でも成功組?は自己満足と優越感に陶酔し、優越感の中で他人をさげすむ。 負け組?は悲嘆に暮れ、悲嘆し、未来に喜びを失い、自暴自棄になる。 あとはお決まりの混乱と騒動。 動乱と戦争。
ネズミはネズミ。 本物の馬鹿。 猿でもよい。 本物の馬鹿。 さらに人間。 本物の馬鹿。 自分が馬鹿であることに気がついていないから、本物の馬鹿。
そういえば、10年ほど前のこと、私の家の周辺には無数のイノシシがいた。 夜、車を走らせると、イノシシを見ない日がなかった。 私の家の庭も土手も、そのためでこぼこになってしまった。 が、そのイノシシが、ある日を境に、いっせいに姿を消した。 伝染病、である。 伝染病が発生し、そのためイノシシは、姿を消した。 話を聞くと、5~6キロ離れた隣の村でもそうだった。 さらに反対側の10~20キロ離れた隣の村でもそうだった。 つまりこのあたりの地域から、イノシシが姿を消えた。
村のある人がこう言った。 「数がふえすぎると、伝染病が発生し、淘汰されるんですよ」と。
が、一方、私たち人間はどうか。 ネズミや猿、イノシシとは違うと言えるのだろうか。 「人間は利口だから、自然淘汰されるということはない」と。 「人間には自らコントロールする力があるから、大丈夫だ」と。
そう、確かに、利口。 利口になった。 が、忘れてはいけない。 利口と賢さは、基本的な部分で土台を別にする。 たとえば子どもでも、利口な子どもは幼稚園児のときから掛け算の九九を空で言う。 スマホを片手に、仲間同士で連絡を取りあう。 まさにそこは情報過多の世界。 情報、情報、また情報。 その結果、利口になった。
が、誤解してはいけない。 利口な子どもイコール、賢い子どもではない。 「利口」イコール、「賢さ」ではない。 言い換えると、いくら掛け算の九九を暗記しているからといって、掛け算や割り算ができるというわけではない。 では、どうちがうのか? 利口と賢いは、どこがどうちがうのか。
で、つまるところ、「賢さ」とは、「自ら考える力」をいう。 その力がある人を、賢い人という。 だからあのパスカルはこう書いた。
「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」と。
最後はキリスト教に帰依したパスカルだが、この名言を裏から読むとこうなる。
「人間は考えるから、葦ではない」と。 さらに言えば、「考えなければ、人間はただの葦でしかない」と。 さらにさらに言えば、こうなる。
人間は、もし考えることをやめてしまったら、人間はただのネズミでしかない、と。
たしかに人間は馬鹿である(失礼!)。 自分が馬鹿であることに気がついていないから、馬鹿である。 が、そんな馬鹿でも、自分が馬鹿であることに気がつけば、人間はもう馬鹿ではない。 その「気がつく」部分が、つまるところ「考える力」ということになる。 さらにつきつめて考えると、こうなる。
人間は考えるから人間である、と。 つまり自ら考える人を、賢い人という、と。
●ネズミを超える
たった一匹でも、「ああ、自分はただのネズミなんだ」と。 それに気がついたネズミは、もうネズミではない。 猿にしても、イノシシにしても然り。 自分に気がついた猿や、イノシシは、自分に気がつけば、もうそれらの動物は、ただの動物ではない。 ただの猿ではない。 ただのイノシシではない。
人間もまた然り。 「ああ、私はただの人間だ」と気がつけば、もうその人間はただの人間ではない。 人間を超えた人間になる。 が、そうでない人間は、そうでない。 つまりただの人間と気がつかないから、ただの人間。 あるいは中には、「私こそ、最高」「私がいちばん利口」と思い込んでいる人がいる。 が、そう思うのはその人の勝手だが、その返す刀で、「ほかの人間たちはみな、馬鹿」と考える。 中には「劣っている」と考える人もいる。 政治家や知名人の中には、そういう人が多い? ・・・というか、傍から見ていても、そういう人はわかりやすい。
・・・というか、言い換えると自分で自分を知るということは、それほどまでに難しい。 簡単なようで、簡単ではない。 それはたとえて言うなら、そこらにいるネズミ、あるいは猿でもイノシシでもよいが、そういう動物に自分を教えてみるとよい。
「あなたね、みんなと同じことを考えていると、やがて自滅しますよ」と。 あなただけならまだしも、あなたの仲間すべてを巻き込んで、自滅しますよ」と。
が、そもそも彼らには、考えるという力そのものがない。 もっとストレートにいえば、論理の基本となる言葉そのものをもっていない。 だから彼らは、自分たちの世界だけで生まれ、生き、そして死ぬ。 それ以外の世界を知らない。 で、それがわからなければ、山中にデンと座っている猿を見ればよい。 態度がでかい。 ふてぶてしい。 車が来ても、道をあけようともしない。 相手が女性だとわかると、さらにふてぶてしい。 猿は猿で、自分が馬鹿だと気づいていない。
が、そんな猿でも、自分が猿だと気づけば、その猿は、もうただの猿ではない。 猿を超えた猿になる。 そしてそういう猿は、人間にこう教えを乞うようになるかもしれない。
「私たちは馬鹿な猿です。こんな生活を繰り返していたら、私たち猿はいつまでも同じ猿です。今日も山の中の柿実を取り合って、喧嘩ばかりしています。ですから、人間のあなたに教えてもらいたいのです。あなたがた人間は、私たち猿が知らないことを、山ほど知っているはずです」と。
もうみなさん、おわかりのことと思う。 つまりそれが人間における神との出会いということになる。
●神との出会い
理由は簡単。
神は、時空を超えて、すでに何万年、何十万年、さらにはひょっとしたら、何億年も先を行く人たちである。 つまり現在、私たち人間が経験しているような世界を、何万年、何十万年、さらにはひょっとしたら、何億年も前に経験している人たちである。 だったら今、私たち人間は謙虚になり、その教えを神に求めればよい。 「私たちは馬鹿な人間です。なぜ私たち人間が、今、ここにいて、なぜ生きているのか。どうかそれを教えてください」と。
つまりその謙虚さこそが、人間が神の門を開くための、必要条件ということになる。
●社会的動物
が、だからといって、同時に私たち人間は社会的動物である。 それを忘れてはいけない。 生きていくためには、人間同士のたがいの協力が必要である。 そうした相互作用を社会性というのなら、その社会性なくして、人間は生きていくことはできない。 そしてそのためには、働き、対価を得て、食物を買い、食べていかねばならない。 共同生活をするためには、調和と協調が必要であり、そのための制度も必要である。 が、それはそれ。 つまり人間が自らすべきことは、人間自身がする。 いくら神に謙虚になれといっても、人間自身が自らもつ、生きることの崇高さまで忘れていけない。
これは個人の価値にも通ずることだが、人がなぜ美しく輝くかといえば、懸命に生きるその姿があるからである。 その懸命さまで、見失ってはいけない。 そこに病気があれば、病気と闘う。 そこに不都合があれば、その不都合と闘う。 遠い・ つまりそこから人間世界のドラマが生まれる。 無数の、そして様ざまなドラマが生まれる。 つまりそのドラマの中に人が生きる価値があり、美しさがある。 その価値と美しさまで、失ってはいけない。
わかりやすく言えば、自分が馬鹿だと気づかないまま現実世界を生きていくのと、馬鹿だと気づいて生きていくのとでは、生き方そのものが大きく変わってくる。 あるいはそこに自分たちよりはるか先をいく人たちがいるのを知りつつ現実世界を生きていくのと、自分たちが最高だと思い込んで生きていくのとでは、生き方そのものが、大きく変わってくる。
となると、私たち人間は、神に何を求めればよいのか。 もっと端的に言えば、神は何のためにそこにいるのか。 さらに言えば、神は人間にとって、いったい何なのか。
●永遠の真善美
私たちが神に求めるものは、何か? 人間が運命とすべき、生きる目的とは何か。
言うまでもなく、それが絶対的な真善美ということになる。 永遠の真善美ということになる。
つまり神は、私たちに、生きる目的を教えてくれる。 進むべき道、つまり運命を教えてくれる。 いうなれば混沌とした暗闇の中で、進むべき方向を示してくれる。 それははるか彼方に輝く星のようなものかもしれない。
が、もちろん、その道は遠い。 険しい。 しかもそれは星の彼方にあって、それこそ人間が何万年も、何十万年も、さらには何億年かかっても、そこにたどり着くことはできないかもしれない。 が、人間はその星に向かって歩く。 ただひたすら歩く。 前に向かって歩く。
が、その世界は、まちがいなくそこにある。 それが星ということになる。 言い換えると、それが私たちが求める希望ということになる。 そういう「星」があることを知ること自体が、希望ということになる。 その希望をもって、前に進む。 ただひたすら前に進む。
神は、それを私たち人間に教えてくれる。 それが私たち人間にとっての「神」ということになる。
●終わりに
冒頭で、「自滅論」を話した。 が、最後では、「神論」になってしまった。
で、私はこう考える。 つまりそれが自然の摂理であるなら、人間もある限界を超えたとき、自滅するのも、これまたやむなし、と。 人間だけが、ほかの生物とは違うと考えること自体、まちがっている。 が、問題は、人間がもつ知的能力。 たとえば大量破壊兵器、そして核兵器。 そういうものを使って自滅すれば、即、それは地球そのものが、終わってしまう。 同じ自滅でも、ネズミや猿、イノシシとは訳が違う。 またいくら自滅?しても、結果的には、個体数を減らす程度ですむ。 が、人間はちがう。 まさに全滅。 あらゆる生物を巻き込んで、全滅。 が、それは何としても、阻止しなければならない。
で、その力となるのが、結局は「神」ということになる。 1万年後、10万年後の目標は無理としても、100年後、1000年後の目標を知るだけでも、現在の危機的な状況を回避できるかもしれない。 あるいはたったそれだけのことだけでも、この世界の喧騒が、いかに無意味で低次元であるかがわかるかもしれない。 そうなれば人間は、現在のこの危機的状況を回避できるかもしれない。 「こんな馬鹿げた戦争など、やめようではありませんか」と。 あるいはさらに言えば、そこに「神の存在」を感じたら、戦争など、とてもできなくなる。
こういうケースで、「恥ずかしい」という言葉を使うことが適切かどうかは、私にはわからないが、こうなる。 「恥ずかしくて、恥ずかしくて、戦争などしておれません」と。
・・・これで何とか、冒頭部分と結論がつながった。 この原稿については、機会があれば、また推敲してみたい。
(2024年10月31日朝、ビデオ日誌で話したことを原稿にまとめる。 プロトタイプの原稿なので、お聞きづらい点があるかもしれませんが、どうかお許しください。)
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〇02961A On Humanity 神との出会い、そして人間論+謙虚に、しかし人間自身の崇高性を大切に+懸命さから生まれるドラマ
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最終更新日
2024年11月01日 16時15分37秒
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