朝、起きると、何だか記憶が、なくなってませんか (^^ゞ
起きたときって、ぼぉ...っとして、何だか、頭が真っ白な感じ。
それで、トイレ入ったり、顔洗ったり、そんな何も考えなくてもできる
習慣的なことを、ぼぉ...っとやってるうちに、ふと、思い出す。
「記憶」を。
自分の人生が、昨日、どこまでいったのかを。
あ、そうか。会社に行くんだ、とか、
あぁ、そうか、今日はこれをやらなきゃならなかったんだ、とか、
あ、この問題、まだ解決してないんだった、とか。
私の人生の、昨日までのポイントに、戻ってくる感じだ。
そしてまた、そこから今日という「つづき」を、歩き出す感じ。
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大切なのは、この「自分の人生の記憶を思い出した瞬間」に
希望に満ちた幸福な気持ちになれるか、
それとも絶望的な気持ちになるのか、
そこなんじゃないかなぁ。
「あぁ、嬉しい、今日も私のこの人生で、私でいられて、しあわせだなぁ」
と思えるか、
「あぁ...また、この一日が始まるんだ。何も変わっていない。気が重い...」
と思ってしまうのか。
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今日、朝起きて、思ったこと。
私は、私が気持ち良いように、生きていければ、
それが一番いいんじゃないかなぁ。
むしろ、それが全てなんじゃないかなぁ、
って。
何をしなきゃいけないとか、こうあるべきとか。
難しい意義とか、理論的な理由とか、そうじゃなくて。
朝起きたときなんか、そういう難しいこと、全部忘れてる。
あるのは、シンプルな、原始的な、感情だけなんだ。
うれしいとか、なんか嫌だとか、なんか今日は楽しみだとか、そういうこと。
朝起きてから、そういう理性的な部分の記憶を思い出すまでにね、
そういう、「何となく、気持ちいい」っていう感情が
この心に、そよそよ吹いているかどうか。
もしかしてそれが、一番シンプルで、一番大切な基準なんじゃ
ないかなぁ、って。
それで、その後に、そのしあわせの理由を、ふと思い出す。
今日も、家族がいるなぁ、しあわせだなぁ。 とか、
今日も、この仕事をやれて、しあわせだなぁ。 とか。
今日も、わたしでいられて、しあわせだなぁ。 とか。
こんなふうに考えると、もしかして、「理性」っていうのは、
「感情」よりも、ずっとずっと、進化の遅れたものなのかも知れないな。
だって、思い出すのに、ずっと時間がかかるから。
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自分の「心」に吹く風のことを、もっともっと大切にしてみよう。
どんな色なんだろう。どんな方向に吹いているんだろう。その強さは?
きっとその風は、自分の理性よりも、何よりも
自分のいくべき道を、旗をなびかせて、示してくれるのかも知れないな。