カテゴリ:カテゴリ未分類
人の目にとって愚かで、一見、か細くも見える、「信じる」というただ一つの道、 ここに隠された神の恵みの大きさよ、 圧倒され、ただ口を覆うばかりです。 死という扉を通って、導かれたその場所は、いのちと平安。 どうしてこのようなことが想像できたでしょう。 死の真っ只中に置かれた時、人は全くもって無力の極み。しかし、そこに介入される信じる者に働く神の御手は、いのちの領域へと、速やかに導く。 それはまるで、瞬きの瞬間であるかのように、いつここに移されたのか、わからないほど、気が付けば、神の平安の中に、御手の中にいるのである。
日々、キリストにあって死ぬことの恵み、それは、まことの生へと移される小さき実体験。 主は、 「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です」 ルカ16:10 と語られた。 忠実ということを、主にどのような事か祈った事がある。 「生きることは、キリスト、死ぬことも、また益です。」とパウロは語っているが、 いのちに忠実であるということを感じるのです。 キリストにあって、日々、キリストとともに死に服するいのちを、主は、ご自身の忠実な御心に従って、復活の領域へ、死からいのちへと移してくださる。 日々、キリストとともに死に、日々キリストとともに生かされ、キリストの人生を歩む、ご自身の僕を、やがて肉体の死を経る時、ご自身の忠実な御心に従って、いのちへとよみがえらせてくださるのである。 福音にとどまること、それは、 第一コリント15:2~5 この福音の中で生きることそのものが、まことの忠実さなのだと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|
|