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静かな日々が流れています。 入院を前にして、こんなに静かな気持ちでいいのかな・・これから大変な日々になるというのに、私、鈍いのかしら?ぼけているのかしら?・・と思ってしまうほど、静かです。 主人も大きく落ち込むこともなく、息子とじゃれあって遊んでいます。 夫が病であるなんてとても思えないぐらい、穏やかで、笑い声も絶えません。 不思議です。 こんな調子でいいのかしら・・・なんて思っていましたが、 思いが守られている事を感じます。 もちろん、ふと、考え出すと、涙が溢れて止まらなくなります。 そんな時、最悪の事まで考えている自分に気が付きます。でも、気が付いた時、主イエスキリストのゆえに感謝です。 その思いに浸る自分を振り払い、ただ主の御名を呼び、思いをシャットアウトします。 「信仰の薄い者よ」 と呼びかけられる主の御声に、 「本当に主のおっしゃるとおりです。どうぞ、憐れんでください・・ あなたの信仰の中にとどまります。」 そのように祈ります。 「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、 あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません」 詩篇16:10 この御言葉のゆえに、感謝します。 辛い治療を耐え忍ばなければならないことや、副作用に苦しむ主人のそばに何もできない無力な自分があること 主人の姿を見るとき、胸が引き裂かれるような思にになるかもしれない。 でも、まことの暗闇を通られたお方が共におられる。 未だかつて、誰一人として、経験した事も、味わったこともない、父なる神に見捨てられるというまことの暗闇を通られた方が、共にいてくださるのである。ただ、一緒にいるよ~と言われるのではない。共にうめき、共に痛み苦しみを負ってくださる。 むしろ、人にとって耐えられないよう試練は、主が味わってくださった。 そのお方が共にいてくださる。なんという慰めでしょう。 「私はいつも、私の前に主を置いた。 主が私の右におられるので私は揺るぐことがない。」 詩篇16:8
まことの暗闇の中にあって、主ご自身が人として、決して失わなかったもの、 父なる神への「信」 父なる神への「信」の深さが、暗闇の深さを超え、まことの勝利を得たのであり、 ゆえに父は御子をよみがえらせ、「キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えにになられたのです。」 勝利をとられた、それはただ、御子の「信」を通して、勝利を得られたのです。 その信仰をいただいて、信じている、これは本当に素晴らしい福音。 主と一つとされたということは、信仰もひとつとされたということ。この「信」によって生きることが、いかに「いのちそのもの」であるかを思わされます。 私たちは、この世のものであって、この世のものではない、 それはこの世の現実の中にあって生きているが、現実はもはや私たちを支配ししていない事を意味します。 まことの支配者なるお方が、私の主だからです。 現実は私の主ではありません。 「あなたは私を誰だといいますか?」とお弟子さんにお聞きになった主は、今日、私たちに同じように聞かれているとそう思うのです。 「あなたは生ける神の子キリストです」 主は、生きている場、空間の真っ只中で、この告白をする事を、喜ばれるのではないでしょうか 主はこのようにおっしゃいます。 「わたしはこの岩の上に私の教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしはあなたに、天の御国の鍵を上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くならそれは天においても解かれています。」 なんという祝福に満ちた言葉でしょう。 ハデスの門も打ち勝てない。 ハレルヤ!主の御名をほめたたえます!!!! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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