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「神は真実な方である。その方によってあなたがたは、 その方の子であり私たちの主であるイエス・キリストとの交わりへと、 召されたのである。」 コリント第一1:9
透析から帰り、家族が寝静まっている中、主とともにPCへ♪ 頭がフラフラしながら、少しボーッとしている。 横になってもいいけど、内側から歓びが満ちてきて、横になるのがもったいない。笑 透析中いろんなことを思い返しながら、とても感謝でいっぱいになった。 今置かれている状況がどうとか、これからのことがどうとか、そういう思い煩いから自由とされていることは、本当に感謝。
腎不全の状態で、救急で運ばれてきた時、血中の毒素の値から、「よくまあ、こんなになるまで我慢したねぇ。普通(腎不全と言われる人の値)よりかなり高い」・・後から看護士に「よく生きていたね・・」と言われた。いつ心臓が止まってもおかしくない状況だった。 透析になり、急激に血液がきれいに戻ることで、透析に慣れていなかった体は、立っていることも難しかった。何度も気を失って倒れ、こんなにしんどい思いをしながら生きていかなきゃならないのかと本当に思った。 いっそのこと、何故召してくださらなかったのですか?と病室でうめくように祈っていた。 これからのいっさいの思い煩い、どうなってしまうのだろうという自分に関する将来のこと、計画、そのすべてが、主の御言葉 「神が遣わされた者を信じること」という御言葉の前に置かれた。 自分のことを、うじうじと考えることすら、主の御手の中に丸ごと投げた感じだった。 もちろん投げやりになったわけでなく、私にとって、すべてのことを主の前に手放す事が必要だったように思います。 すべてのことをひっくるめて主を信じます。と告白した。 その祈りの後、感じた深い平安は、置かれている状況など、どうでもよくなるほどの幸せを感じた。 キリストを信じること、それは、キリストの十字架を第三者的に傍観者のようにして眺め、信じます。ということではない。 キリストと共に十字架の上で、まさに共に死んだという真理の中にとどまること、 そして、今生きているのは、もはや私ではない、復活のキリストと共よみがえり、このお方のいのちのよって生きているという、真理の中におり続けること。 福音の中で生きつづけること、そこにおり続けること、座り続けることだと感じる。 今思い返すと、救急車で運ばれた時、あの時、死にそうだったのではなく、主と共に死んだ。そのような体験だったのかもしれません。
主人の事を通しても、「神が遣わされた者を信じる」いつでもこの御言葉に引き戻される。 福音にとどまり続ける、ここに引き戻されるのです。
今、「神は真実な方です」という御言葉に、心から、アーメン!!です 置かれている状況を超えて、ただ、一心に見つめたい、このお方だけを。
このまことの召し、この方を豊かに味わい、飲み続け、鏡のように反映し続けながら、いのちを通して主の証が流れ出す。栄光は主のもの!ハレルヤ!
すべての状況を通して、このお方を豊かに飲み、食べ、霊によって知るという素晴らしい恵みに、信じる者だれもが召されていると信じます。
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