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バプテスマのヨハネ、何て不条理な召され方なのだろうと思うのは、私だけではないと思う。 ご存知の通り、彼はヘロデヤの逆恨みを買い、娘の踊りの褒美として、首をはねられてしまうのである。(マルコ6:17~) 神を信じる者であるなら、なぜ、このような死に方を神はお許しになるのかと思ったことがあった。一見、無駄死にとも取れるような、不条理としかとれないような、神の栄光とは、かけ離れた死に方に感じていた。 でも、そうではなかった。 マルコ9:11~14 「そこで彼らは、彼に尋ねて言った。 『なぜ律法学者たちは、『エリアがまず最初に来なくてはならない。』というのですか。」 すると彼は彼らに言った。『たしかにエリヤがまず最初にやって来て、すべてを回復する。ところで(人の子)について、彼が多くの苦しみを受け、ないがしろにされると書いてあるのはどういうわけか。 だが、わたしはあなたたちに言う、まさにエリヤは来てしまったのだ。しかし、人々は彼に好き勝手なことをした。彼について書いてある通りなのだ。」
何のことやら、さっぱりわかりずらい。しかし、岩波訳の注解を読んで、驚きを感じた。 「まず、エリアがやって来ていっさいを回復する。しかしそれならば、そのエリヤの後に来るべき(人の子)がよりによって苦難するとはどういう訳か。実はこれは矛盾ではない。私はあなたたちに言うが、エリヤは浸礼者ヨハネとして実際に到来し、その彼を勝手に扱って殺してしまったのだ。しかも、それが逆説的にも『いっさいを回復する』ということなのだ。それによって、彼はまさに受難の(人の子)の完璧な先駆けとなったのだ。」
この人こそ、 「見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、 わたしの道を、あなたの前に備えさせよう。」 と書かれているその人です。 マタイ11:10 の御言葉の意味が迫ってくるように感じた。 無駄死にのように見えたヨハネの死、ところが、彼の死は、キリストの受難の先駆けとして、備えられた死であった。 バプテスマのヨハネの死は確かに不条理だ。しかし、本当に不条理な死の中に置かれたのは、主イエス・キリストである。 人々に見捨てられ、あざけられ、恥を負わされ、まったく罪もない、聖いお方が、いっさいの罪を背負い、贖うために、十字架の上で、父なる神に見捨てられるという、だれも味わった事もない不条理をその身に負ってくださったのである。 それがいかに不条理な事なのか、わたしたち人間の理解を超えることである。しかし、それほどに、深く神は私たちを愛してくださっているのである。神自らが受肉し、まったくの不条理さの中に置かれる、これは、人の理解を超えていることなのです。 「このことを理解し正しく認識することは、人間の精神力を超えている。それは天使たちすら、知りたがっていることなのである」と、サンダーシングも主から示されている。 確かに、バプテスマのヨハネの死は、人々の勝手によって扱われ殺される、人の側から見れば、なんで、どうして?という不条理を感じる、しかし、バプテスマのヨハネの死は まことの受難、キリストの受難の不条理さを表し、主の前に備えられたのである。 バプテスマのヨハネの死を、どのような思いをもって、主イエスはお聞きになったことであろうと思うのです。それでも、主はまっすぐに、十字架に向かって、歩まれてゆかれました。不条理な十字架の道をまっすぐに。 『すべてを回復する』 という逆説的な神の方法、その救いの中にいれられた。 思いを超えて、ただ、ただ驚きに包まれるのです。
わたしたちも、生きてゆく中で、不条理さの中におかれることがある。まさに、どうして、なぜこんな事が?と感じるような状況のなかに。 しかし、十字架という不条理の中に、神の救いが備えられていたように、主は十字架を背負ってついていくという、その不条理さの中で、共にいてくださるだけでなく、まさに、『すべてを回復してくださる』主であると信じます。 苦難という逆説的なことの中に、主のいのちが現されるという恵みがそこに備えられているのです。 ハレルヤ!!ただ主だけがほめたたえられますように! 十字架の栄光の素晴らしさよ、あなたの不条理を、そのあしあとに従って歩む事ができますように。死者をも起こされる神に、栄光あれ!ハレルヤ!
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