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もう金曜日。一週間は早いですね。 今週は主人も家を満喫♪やっぱり家で普通に過ごせることは、本当に恵みですね。 小さなことがとても嬉しかったり、家族と過ごす幸せは何よりも素晴らしい。 今日は主人が野菜たっぷりのカレーを作ってくれました。台所にたって一生懸命 作っている時の主人はとても嬉しそう。美味しそうに食べる子供たちを 想像しながら作っていました。 美味しいものを作っては、娘に『早く帰っておいでよ今日は○○を作ったよ』と、さっそくメール。 私が透析から帰るPM10:00過ぎには、夕食を温か くして用意していてくれている。 『先に寝ていてもいいよ』って言うと、『そんなこと可哀想だから』と一緒にテ ーブルで話をしたり...。 そんな一日一日が流れてゆきます。 何だかとても幸せです。 来週火曜日から入院しますが、それまで、家族で過ごす時間をじっくり楽しみたいと思ってます。 移植への恐れからも守られていること、本当に感謝します。 主の恵みはわたしたちに今日も十分です。 ハレルヤ! いのちは主のもの、たとい朽ちていく体を着て生きていても、私たち信じるもの に与えられているいのちは、朽ちることのない永遠のいのち。 『たとい死んでも生きる』 という御言葉は、わたしの内に深く刻み込まれたレーマ。 この御言葉は、愛する姉妹が召された時に、内側から主が語ってくださった御言葉。この御言葉が語られた時のことは決して忘れない。 姉妹が召された時、いろんな思いが交差して、悲しみが、泣き声と共に噴出しそうになったそのときに、力強く主が語りかけてくださった。 その瞬間、悲しみは、まるで潮がいっぺんに引いていくように、わたしの内から消えていった。「姉妹は生きている。」そう確信した瞬間だった。 ただ、信じるということを超えて、疑いのない事実を知ったかのようだった。 死という扉の向こうにある、確かな「いのち」を感じた。 それ以来、このいのちへの確信は、揺るがないものとなている。 このいのちに生きるのは、死んでからではない。 主を信じて、生きている今、すでにこのいのちに生かされている。 実感しようがしまいが、関係ない。 あなたの心臓が、動いている事を実感しようがしまいが、そんなことにお構いなく、あなた中で鼓動を打ち続けているように、 確かにキリストのいのちは、信じるものの内に、霊の鼓動を打ち続けているのです。 そのいのちが与えられている。それこそ、真の希望。 そのいのちは、私たちのうちで永遠に朽ちることがないのです。 このいのちは、肉にあっては、十字架の死を通してのみ、輝くいのち。 ゆえに、パウロは 「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」 第二コリント12:9 と語られたのではないでしょうか。 弱さの内に輝く主のいのち、このいのちが弱さの中にとどまればとどまるほどに豊かにあらわされる。 「このいのちを証言せよ、」 と語られる主のみ声に、押し出される恵みを感謝します。 いのちなる主イエスをほめたたえます!ハレルヤ!! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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