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よく、「霊とまことによって礼拝することができますように…」という祈りを聞く。霊とまことによる礼拝、それはどのような礼拝をいい、またそうでないのかを、主の目線から本当に理解している人はものすごく少ないのではないかと思う。ただ漠然としていた、私自身もそのひとり。多くの場合、熱心さ、脇目もそれずに集中することや、また形へのこだわり、静かな環境で神を真剣に思えば霊とまことによって礼拝していると錯覚し、よいメッセージを聞けたら恵まれた…、礼拝を捧げたと満足してしまっているのではないか。メッセージが良ければ恵まれたよい礼拝?、また音楽機器が揃い、賛美がさかんであり、それに酔いつつ主を拝することが、霊とまことによる礼拝なのか。人の側の満足が、イコール=霊とまことによる礼拝とすり替えられてしまっているように思います。… ここにきて、礼拝への思いを深く思い巡らし、いろいろな気付きが与えられつつあることが嬉しい。アンドリュー・マーレーも、 「すべての礼拝者は、必ずしも真の礼拝者ではありません。多くの熱心で正直な礼拝が、霊とまことによる礼拝でないのかもしれません。思いが集中し、感情が激動し
、意思が強く働いても、霊的礼拝でないものがあるでしょう。霊によってというのは、外面的なものと対照して内面の心において礼拝を守るという意味ではありません。まこと、という言葉も真実とか正直などを意味しているのではありません。 私たちが神のことを思う自分の思いや、まともな感情を呼び起こそうとする自分の努力や礼拝しようといった私たち自身の努力を、まず放棄しなければなりません。」 肉の力、肉の思いによって行われてきた礼拝がいかに神を辱しめ、御霊を悲しませ、そして私たち自身のたましいに無限の損失をもたらしてきたかを彼は語っています。 「旧約時代の聖徒たちの礼拝においても、彼らは神が人のうちにあるまことを求めておられたことを知っていました。彼らもまた、心のすべてを傾けてまさに真剣に神を求めた。しかし、それにもかかわらず彼らは霊とまことによる礼拝に到達することができませんでした。」(キリストの御霊より抜粋) 「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時がきます。」 とイエスは語られました。これは驚くべく恵みに満ちた言葉です。霊とまことによって父を礼拝することが、イエスの死を通して開かれることを。それは、キリストの御体である肉の幕屋が裂かれたことによってもたらされるものであるからです。 まことそのものなるイエスご自身による礼拝、御子だけが父なる神の満足であること、私たちは肉によってはいかなる方法であろうと神を満足させるものは微塵もないことを深く知り、神の御霊によって礼拝する者へと真に導かれて行くこと、それはことごとく聖霊によるのです。「御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせる」お方、この「御霊の中にいる」ことが霊によって礼拝することなのです。 「神が遣わされたものを信じること、それが神の業です。」 信じる者の内に御子の御霊を遣わしてくださった。そのお方が、私、そしてあなたの内に幕屋を張られたのです。ご自身の住まう所として…なんという驚きでしょう。ただ、ただ恐れに満ち、喜びが内側から湧水のように溢れてきます。肉によってイエスを知っていたときは、内におられるということすら、真理でありながら、しかし頭の理解でしかありませんでした。わかっているつもりの、肉の知識としての理解であって、そこにまことの喜びはありませんでした。御子の御霊が私の内に住まい、私の内、奥深くその至聖所におられる、それはなんと個人的な経験でしょう。わ・た・しの内の聖所と至聖所の隔ての幕はすでに裂かれた、その生きた経験が、信じる者の霊の内にまさに開かれていくことは驚きです。 内なるお方を霊によって崇める、その幸いな礼拝はなんと親密なプライベートな交わりであり、同時に愛する兄弟姉妹の内なるお方を崇めるという礼拝へと繋がっているのです。御体の広がりは真にイエスが崇められる礼拝への召しでもあると信じます。 栄光が主に、ただ主にありますように…! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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