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御言葉を食べること、これは、ただ単に読むことだけではない。
内に与えられた御言葉に従って、そのように行なうことだ。 イエスご自身もこのように言われた。 「わたしを遣わした方の御心を行なうことが、わたしの食物です」 食べるということは、いのちに関してなんと具体的な事柄であり、人間の体にために一日に少しずつ(日に2、3食)分けて取ることは、生きる上で重要な法則なのです。日に三度食事を口に運び、体内に栄養を吸収されてその人を生かすいのちとなる。 主人が入院生活を送っていた時、この食べるということがいかに恵みであり、いのちに繋がっているかが実感させられた。食べる喜びは、まさに生きる喜びそのものを表している。 食べる喜びを人間の内に備えてくださったのは神である。すべてのことは霊的なことの影。御言葉を食べることで得られる喜びはどれほどでしょう。与えられた御言葉に応答し、そのように行なうことは喜びなのです。しかし、そのベースは、十字架の死。語られた御言葉を行なう知恵と力は私自身の内には何もないこと、無力であることの深い自覚…、つまり、究極の無力さ、弱さである十字架の死にとどまることです。 十字架の死が働く所、いのちが働くのです。 生み出されたいのちの力によって御言葉を行なうことが、私たちの食物であり、それを食べることは大きな喜び、まさに生きる喜びなのです。日々こつこつと食事をとるように、日々そのいのちによって御心を行い、まことの食べものなる主をほふり、喜びにあずかろうではありませんか。 栄光が主にあるようにとは、主のいのちの分け前に預かり、それを食べ、主がすべてであることを証することでなくてなんでしょう! なにかにとって着けたように、最後の歌い文句のように「神に栄光をお返しします」と言うことではないのです。 「私はあなたの御言葉を見つけ出し、それを食べました。あなたの御言葉は、わたしにとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。」エレミヤ15:16 アーメン! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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