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「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたいところを歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、他の人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れてゆかれます。」
これはペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。こうお話になってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」 ヨハネ21:18、19 「わたしに従いなさい」、とペテロに語られた主。 文字どおり、ペテロの今後に対して言われたこと、ぐらいにしか考えていなかった箇所だった。 しかし、主に従うということに、二つの面があることを教えられた。 実際に主の御心に従って行うことと、主の御心に委ねて、なされるままにまかせること この両面が、キリストご自身の公生涯の中にあらわされています。 イエスは神の国を伝えるためにあちこち巡り歩いて、盲人の目を開け、病人を癒し、御言葉を伝えながら、父の御心に従われました。 そしてもう一つの面、イエスは、捕らえられ、他の人がするままにご自身を任せられることを通して御父に従われたのです。 「完了した」ヨハネ19:30 と主は語られましたが、このところでヘンリーナーウェンは次のように語っています。 「彼は捕らえられ、祭司長の所に導かれ、ピラトの前に連れだされ、茨の冠をかぶせられ、十字架に釘づけられました。ご自分て何とかしようとはせず、すべては他人任せでした。これこそ受難が意味するものです。すなわち、他人のなすがままを引き受けることです。私たちにとって重要なことはイエスが十字架にかけられた場面で、「成し遂げられた」と言われたのは、「自分のしたいことをすべて行った」という意味だけではないことに気づくことです。それは、「私の使命が私において実現するために、私に行われる必要があることを、成されるままにした。」ということも意味したのです イエスはご自分の使命を活動によって為し遂げたばかりでなく、受難によっても成し遂げました。実現するようにと天の父がイエスに授けた使命を成し遂げただけでなく、御父がイエスの上に成されるにまかしたことを、そのまま引き受けることによっても成し遂げたのです」 「わたしに従いなさい」とペテロに語られました。どのように従うと言われたのでしょう活動的に歩むことと、やがて他の人がなすがまま行きたくない所に連れていかれるいう両面です。これはキリストイエスの中に現された栄光なのです。 今まで、多くの主の僕なる器が、主に従って活動した歩みとともに、他の人のなすがままに捕らえられた受難の中に置かれ、そこから輝きでるキリストの栄光を私たちは彼らの中に垣間見てきたのではないでしょうか。 主に従うということが決して活動ばかりを意味するものでなく、むしろ、他の人から、または自分では身動きできないような状況が、思っても見なかった出来事に置かれるときに、なされるがままに留まることを通して主に従うのです。弱さの中に働く復活のいのちを知り、主のへりくだりが私たちの中で形造られるのは、この受難の真っ只中に置かれた時なのです。 引き渡されたイエスは「ほふり場に引かれてゆく子羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように口を開かない」で御父に従われました。そのことによって神の御心を成し遂げられたのです。 「あなたはわたしに従いなさい」 わたしにはできなくても、主にはすべてが可能です。と応答して行きましょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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