カテゴリ:ヘンリーナーウェン
「私たちが霊的に健康であるなら、世界に仕えることができます。大切なことは 「どれだけのことをするか」でも「何人の人を助けるか」でもなく、 「私たちのうちに平安はあるか」です。祈りと行動を切り離した考えは危険です。 イエスの行動は、神との内なる霊的交わりから流れ出たものです。 イエスの存在自体にいやす力があるのであり、それが世界を変えました。 ある意味、彼は何もしなかったのです! 「触れたものが皆いやされた」のです。
宣教とは、神に対するあなたの愛と同じ仲間へのあなたの愛があふれでることであり、ある人はこう述べています。 「宣教とは、ワインを満たしたグラスで二人が乾杯したとき、飛び散るワインのようなものだ」と。 そして宣教とは、おまけのようなものです。 問うべきことは「どうしたら、人々をイエスのところに連れてこられるか」や、「どうしたら信じさせることができるか」や、「これからどうやって宣教に専念できるだろうか」ではありません。 宣教とは、生起するもの(ハプニング)です。 今、私は休暇中なので、何かをしようとしてここにきたわけではありません。何人かを連れてきたのは、普段ほとんど教会に行かない人を誘って、一緒に祈りや聖餐式に加わってもらおうとしたからではありません。わたしは、ただ一人で祈った後、ある人を誘ったら、ほかの人々や、(隣人やその友達たち)がついて来ただけなのです。私がここにいるのは離婚の危機にある夫婦関係を立て直そうとか、まだ信じていない人に信じるようにと説得しにきたのではありません。私はただ、自分がどういう人間であるかを伝えようとして、またほかの人たちと共にいるために、ここにいるのです。 イエスは宣教活動をたくさんしたわけではありません。心に満たされているものを、語っただけです。そしてイエスに触れた人は誰でもいやされました。人々を座らせ、病気を診断してはいません。あるいわ、「私は助けることができますが、あなたは助けることができません」と言われたのでもありません。人々のほうからイエスに触れ、そして、いやされたのです。何がおきたのか、イエスでさえ不思議だったのです。あなたにはできませんが、神との親しい交わりで結ばれ、、他の人々と親しく結ばれているなら、できます。 そのとき皆が、あなたのエネルギーがどこから来るのか知りたがるでしょう。それは、あふれ出たものです。専門的な資格は要しません。日中の何時間かを宣教のために働き、その後、家に帰ってリラックスする、というようなものではありません。誰がわかるでしょう。 宣教は、あなたがくつろいでいる間に起こるかも知れないのです。 二つの言葉が、この点を考える上で助けになるでしょう。「憐れみ」(コンパッション)と「感謝」です。 宣教は、あなたが「共にいる」と言う奥義にあずかるときに起こるものです。受肉とは何よりもまず、神が共におられること、すなわち、インマヌエルということであり、人々と共にいるということです。 宣教の働きとは神の受肉を高く掲げることです。「わたしはあなたと共にいる」と語られた神をたかく掲げることなのです。 わたしたちはまさに、弱い、傷つきやすい人々と共にいる存在であって、それを解決したり、変えたりするためにいるのではありません。それは意図せずもたらされる実です。そのためにそこにいるのであはありません。 憐れみこそが、イエスの祭司職なのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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