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イエスの喜びと満足のために☆

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2008年08月14日
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              主人の水疱瘡も治りかけの痒みが出てきて、あとひと息

               皆様のお祈りを感謝します。

          

         

 

 

          「放蕩息子の帰郷」父の家に立ち返る物語 

                    ヘンリーナウェン著      

          

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  放蕩息子のお話は、聖書の中ではあまりにも有名な箇所であり、救われた時から何度もその話に触れてきて、いつの間にか「知っている」という先入観や、その箇所はこれから救われる人に対するメッセージで、救われたのだから、もうわたしとは関係がない、などという感覚で触れている感がないだろうか。

 この本に触れ、今まで、なんと薄っぺらにこの物語を解釈していたのか、福音が伝える所の真の意味が凝縮して書き込まれていることを、読み終えた今、心が震えている自分がある。

今まで、知りたくて、知りたくて、心の奥底でずっと求め続けていたことが、この放蕩息子の物語、福音の中に書き込まれていたのである。

主イエスが、私たちをご自分のものとして救い、どこへ導こうとしておられるのか、

しっかりと捉えるべき姿がそこにあった。

真のミニストリーであり、目を据えるべき姿、変えられるべき姿が説かれていた。

ヘンリーナウェンはこう語りかけます。

「もし、放蕩息子の物語がの意味するものが、人間は罪を犯し、神はそれを赦すというだけなら、すぐにわたしは自分の犯す罪を、神の赦しを得る絶好の機会だと考え始めるだろう。このように解釈することは、この物語の持つ深い問いかけを失わせる。そこからわたしは、自分の弱さに甘んじるようになり、結局は、神はそれらに目をつむり、何をしようがわたしを家に迎えてくれると期待することだろう。そうした感傷的な夢物語は、福音のメッセージではない。

わたしが表現すべく召されていることは、わたしが弟であろうが、兄であろうと、情け深い御父の息子であるということだ。わたしは相続人なのだ。このことをパウロほどはっきり述べているひとはいない。彼はこう書いている。

「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、私たちの霊と一緒になって証してくださいます。もし子供であれば相続人でもあります。神の相続人、しかも、キリストの共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光も受けるからです。」

     ローマ8:16~

まさに息子として、また相続人として、わたしは跡継ぎになる。わたしは御父の場所を受け継ぎ、御父から受けたのと同じ憐れみを他の人たちに差し出すことが定められている。御父のもとに帰るとは、とどのつまり、父になるという課題を引き受けることだ。

 父になるというこの召命は、この物語のあらゆる「軟弱な」解釈を排除する。

家に帰り、安心して抱き留めてもらうことを、どんなにか自分が渇望しているか知っているが、それが意味するすべてを含めた息子、そして相続人であることを、わたしは本当に望んでいるだろうか?父の家にいるということは、父の生き方を引き受け、その似姿に変えられることが求められる。

最近、鏡をのぞいていたとき、、わたしが自分の父親とそっくりなので愕然とした。自分の面立ちを見ながらふいに、わたしが27歳の時に目にした男が見えた。敬服しつつも批判し、愛しつつも恐れた人だ。わたしはたくさんのエネルギーを、この人物に逆らって自分を見つけようとして費やしてきた。そして、自分とは何者であり、どんな人間になるかという問いの多くも、この人物の息子であることから出てきたものだ。

鏡の中に、突然この人が出現したのを見た時、これまで人生でずっと意識してきた父との相違点はみな、類似点に比べればずっと少ないことに気づき、圧倒させられた。そのショックと共に思い知ったことは、実に自分こそは、かつてわたしが自分の父にしたように他人から敬われ、恐れられ、称賛され、ときに誤解を受ける相続人であり、跡継ぎであるということだ。

 レンブラントの描いた放蕩息子の父親像は、息子の立場を持ち出して父と距離を保つ必要はもうないとわからせてくれる。息子であることをたっぷりと経験してきた者としてあらゆる壁を踏み越え、目の前にいる老人になるという真理こそ、こころから渇望していたことだと受け止める時がきた。永遠に子供のままでいることはできず、自分の人生の責任を回避する口実に父の存在を指摘し続けることもできない。

こどもたちがわたしをどう感じ、どう考えるかに関係なく、わたしは祝福を込め、大胆に両手を差し伸べ、あらん限りの憐れみをもって彼らを受け止めねばならない。イエスのたとえ話とレンブラントの絵が表しているように、憐れみ深い父になることが霊的生活の究極の目標であるなら、今わたしがすべきことは、その意義のすべてを探求することである。」

    

   

  放蕩の限りを尽くして父のもとに帰った弟息子、そしてもう一人の息子である兄息子、そして憐れみに満ちた父の姿、そしてイエスご自身が私たちのために放蕩息子となられたメッセージ、あらゆる角度から私たちに問いかける福音の真理に触れさせてくれる。お薦めの本です。

 

 






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最終更新日  2008年08月14日 17時43分39秒
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