カテゴリ:ヘンリーナーウェン
ここでわたしは、イエスご自身が私たちのために放蕩息子となられた、という奥義に触れたいと思う。イエスは天の父の家を去り、外国へ行き、持っていたすべてを与えつくし、十字架につけられて御父のいる家に帰られた。このすべてを反抗的な息子としてではなく、従順な息子として行われた。神の失われたこどもたちすべてを、家に連れ戻すために遣わされた。罪人たちとの交際を批判する人々に放蕩息子のはなしをされたのは、イエスであった。そして、自分の描いた、長く、つらい帰郷の旅路を御自分で生きられた。 このたとえ話と、レンブラントの絵をわたしが思い巡らし始めたころは、新生児の顔をした憔悴し切ったこの若者を(レンブラントの絵を参照)イエスになぞらえることなど考えもしなかった。しかし、それこそ多くの時間をかけて親しみ、瞑想してきた今、この洞察に祝福を感じている。 父の前でひざまずく、心砕かれた若者は、「世の罪を取り除く神の子羊」ではないだろうか。罪は犯されなかったのに、私たちのために罪を負わされた純真無垢な方ではないだろうか?「神と等しい者であることに固執しよう」とせず、「人間と同じような者になられ」たかたではないだろうか?十字架上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた、罪なき神の息子ではないだろうか? イエスは、御父から託されたすべてを手放した息子、つまり、惜しみなく与える御父の、惜しみなく与える息子であり、そのおかげで、わたしはイエスに似た者となって、イエスと共に御父の家へ帰ることができるのだ。 (prodigal father=惜しみなく与える御父 prodigal son =惜しみなく与える息子)・・・・・prodigalには、浪費、放蕩、惜しみなく与える、などの意味がある。 イエスご自身を放蕩息子として見なすことは、このたとえ話の伝統的解釈から、かけ離れている。にもかかわらず、この洞察には偉大な奥義が秘められている。わたしが神の息子であることとイエスが神のむすこであること、わたしが家へ帰ることとイエスが家に帰ること、わたしの帰るべき家とイエスの帰るべき家は、そのどれもが同じであることの意味を、わたしは徐々に発見し始めている。イエスのたどられた旅をする以外、神へと向かう旅はない。放蕩息子の話をした方は、神の言葉であり、「万物は言葉によって成った。」そして「肉となって、わたしたちの間に宿られ」、イエスの満ち溢れる豊かさの一部に私たちを加えてくださった。 放蕩息子の話を信仰の目によって見るなら、放蕩息子の帰郷とは、すべての人間をご自分のもとに引き寄せ、天の父のために連れ帰るお方、すなわち神の息子の帰郷になるそれは、パウロが言うように、「神は満ち溢れるものを余すところなく御子の内に宿らせ、・・・・地にあるものであれ、天にあるものであれ,万物をただ御子によって、御自分と和解させられ」たことを指す。
次回は、ピエール・マリー神父が、放蕩息子としてのイエスについて書かれたものご紹介します。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年08月16日 20時54分12秒
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