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イエスの喜びと満足のために☆

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2008年08月20日
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  弟のほうが父親に「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言った。そこで父親は二人に分けてやった、何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち・・・。ルカ15:12~

 

 福音書はこれらの出来事を淡々と語っているので、そこでできている出来事が以下に前代未聞であるか文字通りには受け止めにくい。

それは当時、もっとも侵すべからざる伝統を傷つけ、侮辱し、徹底的に反逆することだった。ケネス・ベイリーは、ルカの物語について鋭い洞察を示す解説の中で息子が家出した時に示した態度は、父の死を願うことに等しいと述べ、次のように書いている。

 

「私は15年以上モロッコからインド、トルコからスーダンにかけてあらゆる階層の人々に尋ね回った。それは父が生きているうちに、息子が遺産相続を求めることの意味についてである。答えはいつも同じで、きっぱりとしたものだった。・・・その時の会話は、つぎのようだった。

 「あなたの村で、これまでこうした要求をした人はいますか?」

 「とんでもない!」

 「こうした要求はできるでしょうか?」

 「無理です!」

 「もしだれかがあえてそうしたらどうなりますか?」

 「もちろん、父親は彼を打ちのめすでしょう」

 「なぜ?」

 「それは父に死んで欲しいと願うことです」

ベイリーの説明によると、息子は遺産の分け前だけでなく、それを自由に処分する権利も求めているという。「息子のために財産譲渡の署名をしても、父親が生きている限り、そこから生じる利益で生活できる権利がある。ここでは父が生きている間、所有できないはずの財産処分の権利を、当然のごとく要求し、それを手にしている。この弟息子の2つの要求の背後には

「お父さん、わたしはあなたが死ぬまで待てません。」と言う意味合いがある。

それゆえここで息子の「家出」はいちどくして感じるより、はるかに無礼な行為である。それは自分が生まれ育った家を冷酷に拒絶することであり、自分もその一員であった共同体で大切に守り通された、もっとも大切な伝統とたもとを分かつことだ。ルカが「遠い国に旅立ち」と書いたことには、もっと広い世界を見たいという若者の願い以上の大きなものが示唆されている。ルカが言っているのは、聖なる遺産として代々受け継がれ、手渡されてきた生き方、考え方、行動の仕方から思い切って縁を切ることである。それは単なる軽視以上の家族と共同体が大切にはぐくんできた価値への裏切り行為である。

ここで言う「遠い国」とは、故郷で聖なるものとみなされてきたすべてを無視する世界のことだ。

 

 著者は、これほどまでに挑発的な反抗を自分の人生に見出すことは難しいが、しかし、よく考えてみた時、自分自身が家の近くにいるより遠い国のほうを明らかに選んでいることを通して、弟息子を連想させ、霊的な意味で自分の内に弟息子がいることを感じ取っている。

 

 

     家を出ると言うことの霊的な意味

「私の存在のあらゆる部分は神のものだということを拒否し、神がその腕の中に永遠に安全に抱いて下っていること、わたしが神の手のひらに刻まれ、その両手に包まれているという霊的現実を否定すること。家を出るとは、神が「母の胎にわたしを組み立ててくださった。・・・秘められたところで私は造られ、深い地の底で織り成されたという真理を無視することを意味する。それはいまだ自分にはくつろげる家がなく、それを見つけ出すためにくまなく広く捜さねばならないかのように生きることである。

 家とはわたしという存在の中心のことであり、つぎのような神の語りかけを聞くことのできる場のことだ。

 「あなたは私の愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」~

この同じ語りかけが、最初のアダムに命を与え、そしてイエスに、つまり第二のアダムに注がれた。この同じ声が神のすべての子たちに語られていて、闇の世界にあっても光の中に留まりつつ、自由に生きることを可能にしてくれるのである。

 私はこの声を聞いたことがある。それはかつて私に語りかけ、いまも語りかけている。それは決して途切れることのない永遠からの愛であり、それを聞く者につねに命と愛を与え続ける声である。自分は父と共に家におり、何も恐れることはないと知る。天の父に愛されている者として、「死の陰の谷を行くときも私は災いを恐れない」愛されているものとして、わたしは「病人をいやし、死者をも生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払」うことができる。「ただで受けた」のだから「ただで与える」ことができる。

 愛されている者として拒絶されることの恐れや、認めて欲しいという願いを抱くことなく、相手と直面し、慰め、たしなめ、励ますことができる。また自分に向けられた称賛を、自分の善良さの証明と思わずに、受け止めることができる。愛されている者として自分に与えられた愛は死よりも強いという確信を少しも疑わずに、拷問を受け、殺されることができる。愛されている者として、自由に生きることで命を与え、自由に死ぬことにおいても命を与えることができる。

イエスがわたしにはっきりさせてくださったことがある。それはヨルダン川でまたタボル山でイエスが耳になさったあの同じ声を、私も聞くことができるということである。イエスがご自分が御父の家に住まわれているのとまったく同様に、わたしもそうなることを明確にしてくださった。イエスは弟子たちのために御父に祈られたとき、こういわれた。

わたしが世に属してしないように、彼らも世に属してはいないのです。真理によって彼らを聖なる者としてください(別に分けてください)・・・わたしを世にお遣わしになったように私も彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」

                      ヨハネ17:16~19

 この言葉はわたしのための本当の住まい、本当の安住の地、本当の家を示すものだ。

信仰とは、いつもそこに家があったこと、そして、いつもそこにあるということを徹底的に信頼することである。

 

 

 

 

 






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最終更新日  2008年08月21日 01時11分26秒
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