カテゴリ:カテゴリ未分類
放蕩息子の物語は、どうしても焦点が弟息子に向けられやすい。 しかし、御父にとって失われていたのは弟息子だけでなく、兄息子も同様に失われている存在であることを知り、また私自身も、兄息子としての面を持ちあわせている者であることに気づきを与えられたことに感謝したいと思うのです。
☆彡*ー*ー*★彡*ー*ー*☆彡*ー*ー*★彡*ー*ー*☆彡*ー*ー*★彡
このレンブラントの絵は「失われた息子たちのたとえ話」と呼んでもいいだろう。つまり、遠い国に自由と幸福を求めて家を出た弟息子だけでなく、家に留まった息子も失われた者となった。彼は外見的には良い息子で、すべきことをすべて行ったが、内面においては、父から離れ、さまよい出ていた。自分の義務を果たし、毎日一生懸命に働き、すべての義務を果たしてはいても、しだいに不満を抱き、自由を感じなくなっていた。
恨みによって失われる 私にとって難しいのは、快楽に溺れた弟より、苦々しい思いで腹を立て、怒っている兄のほうが霊的なあり方で私に近いのかもしれないと認めることだ。それでも、兄息子について考えれば考えるほど、彼は私に似ていると認めざるを得ない。私自身、長男として生まれたので、模範的な息子であろうとすることが、どのような感じかはよくわかる。 両親の期待にそって生きようとし、従順で勤勉な子だと思われたいのは、とりわけ兄息子のほうではないだろうか。人を喜ばせようとしがちだ。またたいていは両親を失望させることを恐れる。さらに、かなり早い時期から弟や妹たちにある種のねたみを抱くようになることが多い。弟や妹たちは人を喜ばせることにあまり関心がなく、「自分のしたいことをする」自由がたくさんあるように思える。 私自身、確かにそれが当てはまる。自分は行えそうもないのに、周りにいる多くの人に見られる不従順な生き方に、変な好奇心をいつも隠し持っていた。わたしは、なすべきことをすでに行ってきた。私の人生で、親のような役割を果たした多くの人々~教師、霊的指導者、司教、そして教皇~から要求された項目にほとんど応じてきた。しかし同時に、弟息子がしたように、なぜそこから「逃げ出す」勇気を持たなかったのかと疑問に思うことも多い。 こう言うのも変だが、私は心の奥深くでわがままな弟をうらやましく感じているのを自覚していた。それは、私の軽蔑するさまざまなことを楽しむ友人たちを見て、心に湧き上がってくる感情である。わたしは彼らの行動を非難し、あるいは不品行とさえよんだが、同時に、なぜ自分はその一部、あるいはそのすべてを実行する度胸がないのかと、よく思ったものだ。 従順で勤勉な生き方をしてきたことに誇りを持ち、それゆえ誉められたが、たまにそれを肩に担った重荷のように自分への圧迫と感じることがあった。もはやそのような生き方を捨てることができないほど、したがっていたにもかかわらず・・・・。たとえ話の中でこう不満をもらした兄に自分を当てはめてみると、よく納得がいく。 「わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために子山羊一匹すらくれなかったではありませんか」 この不満によれば、従順と義務は彼の重荷となり、奉仕は奴隷のようなものになっていた。 ある時、これらがわたしにとって現実となった。 最近キリスト者になった友人が、「あまり祈らない」と言って私を批判したときのことだ。彼の批判に私は非常に怒った。わたしはこう独り言を言った。 「私に祈りについて教えようとは、なんとづずうずうしい!彼は長い間、のんきに生きてきて、勝手な生活をしてきたではないか。私は子供のころから、きちんと生活をしてきた。回心したばかりなのに、このわたしを教えようとするのか!」 心の内のこの恨みがましさは私自身がいかに「失われた者」であるかを示している。 私は父の家に留まってこそからさまよい出ることがなかった。しかし、自由な人生を生きてはいなかった。私のこの怒りとねたみは、自分がいかに束縛されているかを明らかにした。 これは私に限ったことではない。家にいながら、失われた多くの兄息子、姉娘がいる。この失われた状態~その特徴は裁き、非難、怒り、恨み、ねたみ、嫉妬~こそが人間のこころをひどく毒し、深刻な害を与えるのだ。私たちは失われた状態を目に見える劇的な行動を表す表現でとらえやすい。弟息子は簡単にそれと分かる罪を犯した。その失われた状態は、極めて明白だ。かれは自分のお金、時間、友人、自分の体を悪用した。彼のしたことは間違っている。それは彼の家族、友人、そして彼自身も良く知っていた。道徳に逆らい、自分の快楽と貪欲のほしいままに行動した。彼の過ちはとてもはっきりした輪郭で捉えられる。その後、自分勝手でわがままな行動は悲惨な結果に陥る以外ないと気づき、我に返り、向きを変え、赦しを求めた。ここは、昔から人間が犯す失敗とそれへの単純明解な解決がある。とても分かりやすく、同情もしやすい。 しかし、兄息子の内に失われた状態を見つけることは、はるかに難しい。とりわけ彼は、いつも正しいことを行ってきた。従順で、勤勉で、法を厳守し、働き者だった。人々は彼を尊敬し、絶賛し、誉めたたえ、模範的な息子と考えていた。外見上は非の打ち所のない息子だった。しかし、弟息子の帰宅を喜んでいる父の姿を目にし、彼の内にある闇の力が表面に噴出して煮えくり返った。突然、心の内にある恨みつらみ、高慢、悪意、身勝手さがその本性をギラギラさせながら姿を現した。それは深く隠されたまま何年もかけて力を蓄え、勢いを増してきたものだった。 自分自身の奥深くを見つめ、そして周りの人々の生き方をよく見て、肉欲と恨みのどちらがより大きな害を与えるだろうかと考える。「正しさ」や「正義」の中に、あまりにも大きな恨みがある。「聖人」と言われる人の中に、それこそたくさんの裁く心、非難、偏見がある。「罪」を避けようと大変な努力をしている人の内に、それこそ多くの無慈悲な怒りがある。 憤った「聖人」の失われた状態を、正確に突き止めるのはとても難しい。それは善良で高潔な人間でありたいという願望と、分かちがたく結びついているからだ。私自身も、良き人間になりたい、人に受け入れられ、好かれ、他人の良き模範となれるように熱心に励んできた。罪に陥らないように意識的に努力し誘惑に屈することをいつも恐れていた。そのせいで、生真面目さ、道徳的な堅苦しさ(狂信すれすれの)を招き、父の家でくつろぐことが、ますます難しくなった。私は自由を失い、自発性がなくなり、遊び心が消え、他の人々はますますわたしのことを、何となく「重苦しい人」と見るようになった。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
ヘンリーナーウェンの兄息子に対する深い洞察によって、見えてくる多くの問題に光が当てられていることを感じるのです。 それは多くのキリスト教会が持つ問題そのものであり、それは、父の家にいながらも失われている兄息子の姿は、私自身であり、多くのキリスト者の姿であるということです。 とりわけ、日本人はこの兄息子に非常に似ていることを感じます。真面目さの中に多くの不満を持ち合わせていることの多くを見てきました。 奉仕に一生懸命であるにもかかわらず、喜びは失われ、そこには多くの不満と、嫉妬、恨み、妬み、高慢さが根底に流れていることを感じます。どうしてそのようなものを心に持ちながら、神の平安の中で安らぐことができるでしょうか。著者が言うように、何もないときには、そのような内に蓄積したものが表面化することはありません。ところが、いざ、プライドを傷つけられる立場におかれたとき、蓄積した負のエネルギーはものすごい粘着性を持ってその感情をあらわにさせるものとなります。 まさに、一触即発の関係がそこに存在します。 希望はないのでしょうか?そこから抜け出ることは可能でしょうか? はい。そこから抜け出ることはできません。とはっきりいます。 それは、自分の力で、自分の努力で抜け出そうとすればするほど、深い闇にはまっていくからです。ちょうど底なし沼にはまった人のようです。ナーウェンは言います。 光が必要であることを。それは私自身ではもたらすことはできない。闇を征服する光は、自分自身の力では作り出せないのです。自分で自分に愛されていることを感じさせることはできない。独力では怒りの巣窟から抜け出すことはできない。自分を家に帰らせることもできない。親しい交わりを作り出すことも。。。それは真の自由は、自分で作りあげることはできないのです。それは与えられねばならない。私は失われた者だ。わたしは私のところまで来てくれる羊飼いによって見出され、家に連れ戻してもらわねばならない。・・と
自分の内にある兄息子としての姿に気づきが与えられることは、主の恵みです。 さらに続く兄息子に対する深いナーウェンの洞察を分かち合えたらと思います。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|
|