カテゴリ:ヘンリーナーウェン
ルカの書いた物語には、父は自分の子を2人とも迎えに出たとはっきり記されている。父は、自分勝手な弟を迎えに駆け寄ったばかりではなく、いったいこの音楽と踊りは何事かといかぶりながら畑から帰った孝行息子に会うためにも出て行き、家に入るようにしきりに願った。 ここで起こっていることの全容を理解することは、わたしにとって極めて重要だ。弟息子の帰宅で心から喜びに満たされつつも、父は兄息子を忘れたわけではない。兄息子はそばにいて当然だと思っているわけでもない。喜びがあまりにも大きくて、お祝いの開始を待ちきれなかったのだ。しかし、兄息子のところに出て行き、宴に加わるようにと懇願した。 兄は嫉妬と苦々しい思いから、無責任な弟が自分よりも注目を浴びているとしか見えず、自分は弟より愛されていないと結論づける。いずれにせよ父の心は、より多いとか少ないとかに左右されるものではない。弟息子が帰宅したことに対する父の自由で自発的な応答は、兄息子との比較から出たものではまったくない。むしろ父は自分の喜びに加わってほしい熱烈に願っている。 このことを納得するのは、わたしにとって容易ではない。この世は絶えず、人を比較し、どれだけ知能が高いか低いか、どれだけ魅力的かそうでないか、どれだけ成功したか否か、つねにランクづけるので、そうでない愛というものを、本当に信じることが難しい。だれかが誉められているのを聞くと、自分は誉められるに値しないと考えずにおれない。他人の善良さや親切について読んだりすると、自分ははたして彼らのようだろうかと考えずにいられない。さらに、特別な人にトロフィ、賞金、何らかの賞が手渡されるのを見ると、なぜわたしでないのかと自問せずにいられない。 わたしの育った世界は、あまりに等級、点数、統計で溢れているので、意識すると否とに関係なく、常に他人を自分の物差しで測ろうとする。わたしの人生の多くの悲しみや喜びは比較することから生じたものだ。全部でないにしろ、そのほとんどは無益で、時間とエネルギーの大変な喪失だった。 私たちの神、父であり母である神は比較はなさらない。決して。しかし、それが真実だと頭では知っていても、わたしの全存在でそれをまるごと受け入れるのは、いまもって非常に困難だ。もしだれかが、「おきにいりの息子(娘)」と呼ばれるのを聞くと、すぐにわたしは、その人の他の兄弟姉妹はそれほど評価されず、それほど愛されていないのだと感じてしまう。 神の子たちのすべてが神のお気に入りであることなど、どうして可能なのか、わたしは想像もできない。そうであったとしても、そうなのだ。わたしの置かれているこの世の視点から神の国を見ると、わたしはすぐに神を、天にあるスコアーボードの記録係のように思い込み、そのために良い成績を残さなければと、いつも恐れてしまう。しかし、喜んで迎えてくださる神の家から、この世を見るなら、比較などまったくなしに、神はすべての女性、男性の独自性を認める聖なる愛で愛してくださっていることがすぐに分かる。 兄は弟と自分を比較し、嫉妬にかられた。しかし父は、あまりに両者とも愛しているので、兄息子が拒否されたと感じないために祝宴を遅らせることなど、思いもよらなかったのだ。比較などしない母性的な神の愛という真理を、わたしの心にしみ込ませることができたなら、太陽に照らされた雪のように、わたしの多くの感情的問題は溶け去っていくにちがいない。
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最終更新日
2008年08月30日 20時18分29秒
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