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今日はいろんな方との交わりが与えられた。まるで上の写真のようなベンチに共にゆったりと腰掛け、親しくそれぞれの思いを分かち合いながら、主の安らかさの中に導かれてゆく。交わりの中にご臨在される方を感じながら・・・。 私たちの弱さは、主の十字架を経て、むしろ、そこを泉の湧くところと変えられる。主のいのちがそこから流れてくるからだ。 「父として、自分のために主張するただ一つの権威は、憐れみという権威である。」 とナーウェンは言いましたが、いのちの中に脈々と流れるもの,それが憐れみではないでしょうか。 聖書の中にあちこちに出てくる「私をあわれんでください。」という祈り。 もう他には術がないという内側からほとばしり出てくるようなうめきが、いかに主ご自身の御心を突き動かさずにはおられない祈りであることでしょう。 憐れみを求める祈りは、ただ、ただ、主のみを待ち望む、という心の叫びであるからです。
「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」 第二コリント12:9 弱さの中に完全に現れる力は、何か目を見張るようなものではなく、むしろ主の憐れみそのものであると感じます。 憐れみに満ちた方に触れられる、それはこの上もないほど幸いなこと、 でも、それはやがて、私自身も、この憐れみに満ちた方に似るようにとの、父の招き。 私の中で主を形造って下さるお方が、父の似姿へと変えてくださる。 深い憐れみに満ちた似姿に。
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