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イエスの喜びと満足のために☆

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2008年09月06日
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 レンブラントの絵の兄息子は、ただ眺めているだけである。彼の心に去来するものがなにかを察するのは困難だ。たとえ話と同様、この絵もわたしの心にある問いを残す。すなわち、祝宴に加わるようにとの招きに、どう応じるかである。

 父の心については~たとえ話でも絵でも~何一つ問いは残らない。その心は両方の息子に注がれている。つまり、2人を同じように愛している。2人が兄弟として、同じ食卓を囲むのをみたいと願っている。

 これらすべてを、わたしの心にしみ込ませようとする時、わたしが神を選んだのではなく、神が私たちをお選びになった。永遠の昔から。私たちは「御手の陰に」(イザヤ49:2)隠され、神の「手のひらに刻みつけ」(イザヤ49:16)られている。誰かが最初に私たちに触れる前に、「秘められたところで私は造られ」、「深い地の底で織りなされ」わたしたちについてだれも何も決めないうちに、かみは「母の胎内で私を組み立ててくださった」(詩篇139:13~15)私たちに愛を示す人が誰もいない前から、神は私たちを愛してくださっている。神がわたしたちを「初めに」愛し、すなわち、尽きることのない、無条件の愛で愛してくださり、わたしたちが神に愛されている子であるようにと望まれ、さらに、ご自身と同じ愛する者となるようにと語っておられる。

 私の人生の大半は、神を見出し、神を知り、神を愛するための苦闘であった。霊的生活の指針~絶えず祈り、人々のために働き、聖書を読む。~に従って懸命に努力し、放蕩に持ち崩させようとする数々の誘惑を退けてきた。何度も失敗し、絶望しそうな時も、いつも繰り返し努力してきた。

 ところで、その間わたしは、神がわたしを見つけ出そうとし、私を知ろうとし、わたしを愛そうとなさっていたことを充分にわかっていただろうか。ここで問うべきことは、「どのようにわたしが神を見出すか。」ではなく、「どのように神に私を見出していただくか」だ。問うべきことは、「どのように私が神を知るか」ではなく、「どのように神に私を知っていただくか」だ。つまるところ、「どのようにわたしが神を愛するか」ではなく、「どのように神にわたしを愛していただくか」ということだ。

 神は遠くまで私を捜しにこられ、私を見つけ出し、家に連れ帰ることを熱望して折られる。なぜ罪人たちと食事をするのかと問われて、イエスが話された3つのたとえ話のどれも、神の自発性を強調している。神は見失われた羊を探しに出て行く羊飼いであられる。神はランプに火をつけ、家を掃除し、失ったコインを見つけるまでくまなく探し回る女であられる。神は、ご自分の子らを見張り、じっと待ち、その子らを迎えに駆け出し、抱きしめ、家に帰るようにと懇願し、乞い、しきりに帰宅をうながす父であられる。

 奇妙に響くかもしれないが、私が神を見出したいのと同じく、いやそれ以上に、かみはわたしを見出したいと願っておられる。実に、わたしが神を必要としているのと同様、神はわたしを必要としておられる。神は、家に留まり、じっと動かずにいて、子たちの方から自分のもとにやってきて、その常軌を逸した振る舞いを謝罪し、赦しを乞い、行ないを改める約束を期待するような家長ではない。それどころか、神は家をあとにし、ご自分の尊厳を無視して子たちに向かって駆け寄り、謝罪や行動を改めようとするどんな約束にも耳をかさず、彼らのために整えた食卓に案内する。

 いま私に分かり始めていることは、神々を隠し、できるだけ私から見つかりにくいようにしているのではなく、むしろ、隠れている私をこそ、捜し求めておられると考えるなら、わたしの霊的旅路のあり方が、いかに根本から変えられるだろうか。ということだ。私が神の目を通して、失われた自分というものを見つめ、私の帰宅によって、いかに神が喜んでくださるかに気づけば、私の人生の苦悩はより少なくなり、より信頼に足るものとなるだろう。

 神に私を見出していただき、家に連れ戻してもらい、天使たちと共に、わたしの帰宅を祝ってもらうことで神が大いに喜ばれるとしたら、なんと善いことではないか?神に私を見つけていただくチャンスをつくり、惜しみなく愛していただいて神に微笑んでいただけるなら、、なんと素晴らしいことではないだろうか?

 このような問いは、現実的な課題を引き起こす。つまり、自分で自分をどう考えるかだ。私には捜してもらうほどの価値があることを、自分で受け入れられるだろうか?神の内にただわたしと一緒にいたいという渇望があることを、私は信じるだろうか。

 ここにこそ、わたしの霊的葛藤の中心がある。すなわち、自己拒否、自己蔑視、自己嫌悪との軋轢(あつれき)である。そこでは、この世の悪魔たちが共謀して、わたしには価値がなく、役立たずで、取るに足らない存在だと思い込ませようとするので、極めて厳しい闘いを強いられる。

 消費者の自己イメーの低さを巧みに操作して物質的な手段で霊的満足が得られるかのようにな、消費優先主義の経済が大手を振っている。自分は「ちっぽけな存在」だと思っている限り、自己イメージがすっかり変わると約束(それは決して実現しない)するかのような物を買ったり、そのような人に会ったり、そのような場所に出かけたりすることに、たやすく誘惑されてしまう。しかし、こうしたことに操られ、誘惑されるたび、わたしは自らをさらに卑しめ、望まれずに生まれた子であるかのように、自分を見てしまうのだ。

 

  *☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*

 

 

  姿を隠していたのは、神の方ではなく、自分であったことを感じた。

「彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御声を避けて園のきの間に身を隠した」(創世記3:8)という御言葉を思い起こしました。

 身を隠したのは、神ではなく、人なのだ。

 「あなたは、どこにいるのか」と園を探し回られた神の御声と、放蕩息子と兄息子の2人の息子に向けられた父の思いが重なって見えた。

家の娘は小さい時、本当によく迷子になった。どこにいるかすぐ分かるようにと、歩くたびにピッピっと音がする、サンダルを履かせた記憶がある。とにかく目を離せない子だったので、紐をつけて歩きたいと何度も思ったほどだ。出かけた先で迷子になった時は本当に心配してあちこち捜したことを覚えている。

 小学生になったころ、公園で友達と遊んでいる時、変な人から声をかけられ、友達はそのまま逃げてきたが、娘が行方不明になったことがある。どこを捜してもいないので、警察を呼んだ。私服の警官が4人来て、これから捜索・・という時になってひょっこり娘が帰ってきて、事なきを得た・・かのような経験がある。

あの時の引き裂かれそうな思いは忘れることができない。

わが子がどこにいるのか分からない、まして事件に巻き込まれたのかと考えただけで、引き裂かれるような痛みを感じた。

放蕩息子が帰ってきたとき、駆け寄ってその首をかき抱き、息子の言葉さえも耳に入らず、喜びがはちけれんばかりになった父。そして、「死んでいたのに、生き返った・・」という父の言葉の中に、いかに、父が子を待ち焦がれ、どれほど深い痛みの中で待っておられたのか・・・。

 いつもながら、父の思いに触れ、心がいっぱいになってくる。

 「あなたはどこにいるのか」と探される神の御前に、自分はどこに隠れているのか・・改めて思う。光に照らされ、そこから踏み出し、神の懐に飛び込んでゆきたいと思うのです。

 

 

 

 

 






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最終更新日  2008年09月06日 09時43分31秒
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