カテゴリ:ヘンリーナーウェン
かなり長い期間わたしは、自己評価の低いことが徳の一つであるかのように考えてきた。あまりに頻繁に、高慢とうぬぼれに警戒するようにと言われてきたので、自分を軽視するのは良いことだと考えるようになった。しかし今は、 真の罪、わたしに対する神の初めの愛を否定すること、自分本来の善さを無視することだと認めている。 これらを受け止めないなら、わたしは真の自分との接点を失い、父の家だけに見出せるものを、見当違いの人々に、見当違いの場所に捜し求める自滅的な旅に乗り出してしまう。 神の初めの愛と自分本来の善さを受け取ることの格闘は、私一人だけではないと思っている。人々の示す盛んな自己主張、競争、ライバル意識の下には、つまり、自信たっぷりで、傲慢にさえ見える心の下には、外側に現れる言動からすれば信じられないほどの、大きな不安が潜んでいることが多い。 だれが見ても才能があり、その業績ゆえにたくさんの報酬を得ている男性や女性たちが、自分自身の善良さを、いかに疑っているかを知り、わたしはショックを受ける。外見上の成功を、自分の内面の美しさの現れというより、自分には価値がないという思いを隠蔽(いんぺい)するために使っている。「私が心の底で何を思っているかを人々が知ったなら、わたしへの喝采や賞賛は止むことでしょう」と、わたしに打ち明けた人は少ない。 周りのだれからも愛され、賞賛されている青年と話をしたときのことを、いまでもはっきりと覚えている。彼は友人のほんの小さな批判で、いかにうつ状態のどん底に落ちてしまうか話してくれた。話しながら、彼の目から涙が流れ落ち、その苦悩で身をよじった。彼は、自分を防衛していた壁を壊され、友人に本当の自分を見られたと感じたのだ。すなわち、醜い偽善者、ピカピカのよろい兜で身を飾った卑怯な男を。この人の話を聞きながらわたしは、人もうらやむ才能に恵まれながら、なんと不幸な人生を彼は生きてきたんだろうかと気づいた。彼は何年もの間、次のような問いを内に秘めて歩き回ってきた。 「自分を本当に愛してくれる人はいるだろうか?自分を本当に気にかけてくれる人はいるだろうか?」 成功の階段を一段よじ登るごとに、こう考えてきた。「これは本当の自分ではない。いつかはすべてが崩れ落ち、わたしはだめな人間だと、みんなわかってしまう。」 彼との出会いは,多くの人がどう生きているかの実例を示している~それは、自分はあるがままで愛されていることを、完全には納得していないということだ。多くの人は、低い自己イメージを抱かざる得ないもっともらしい不愉快な逸話を持っている。すなわち、必要なものを与えてくれなかった両親、不当な扱いをした教師、自分を裏切った友人、人生の危機にあったとき、自分たちを冷たく無視した教会の話などである。 放蕩息子のたとえ話は、およそ拒否というものが成立する以前に存在した愛、あらゆる拒否によって閉ざされたのちも、なおそこにある愛についての物語である。その愛は、父であり、母でもある神の、初めからあり、永遠に存在する愛のことだ。その愛は、人間のあらゆる真実な愛~ほんの限られたものであろうと~が、湧き出てくる泉である。 イエスの生涯と説教の全体には、ただ一つの目的がある。すなわち、イエスの神の無尽蔵で、限りないこうした母性的、父性的愛を示し、わたしたちの日々の生活のあらゆる部分を、その愛に導いてもらう生き方を示すことだ。父を描いた絵で、レンブラントがわたしに垣間見させてくれるのがその愛だ。それは、いつまでも家に迎え入れ、いつでも祝おうとしている愛である。
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