カテゴリ:ヘンリーナーウェン
父親は僕たちに言った。「急いで一番良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」そして、祝宴を始めた。
弟息子が帰った家が、ありふれた農家ではないことをわたしにもすぐ分かる。広大な土地と多くの召使いを抱えた大富豪として、ルカはこの父を描いている。レンブラントは、この記述に合わせ、父と傍観者の二人の男にぜいたくな装いを施している。背景にいる2人の女性が持たれているアーチも、農家というより、宮殿の一部のようだ。父親の豪華な衣装、周囲の豪勢な外観は、あまりに長かった苦悩を物語る盲人らしい父親の目、深い悲しみが刻まれた顔、前かがみの姿勢と、著しい対象をなしている。 ご自分の子たちに限りない愛を抱くがゆえに苦しまれる神は、同時に善良さと憐れみに溢れた神(ローマ2:4)ご自分の豊かな栄光(ローマ9:23)を子たちに示したいと切望しておられるお方である。父は謝罪のいとまも息子に与えない。息子が赦しを懇願しようとした矢先に、父は先手をとって赦しを与え、息子の帰宅という喜びの光の中で、彼の嘆願をまったくの場違いなものとして退けた。 それだけではない。問いただすことなしに赦しを与え、喜びいっぱいに歓迎するだけでなく、新しい生活、あふれんばかりの豊かな生活を与えずにいられない。(ヨハネ10:10)帰ってきた息子にそれを与えたいと切に願うあまり、いてもたってもいられないかのようだ。ほどほどにということがない。最上のものを与えないではいられない。雇い人の一人にしてもらおうと息子が腹づもりしている間に、父はとっておきの来賓用の上着を取りに行かせる。さらに子のほうでは、もう息子と呼ばれる資格はないと感じているのに、愛する息子として、また跡継ぎとしての名誉を回復させようとして、父は手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせてやる。 わたしが高等学校を卒業した年の夏に身に着けた服装のことを、いまでもありありと思い出す。白いズボン、幅広のベルト、色鮮やかなシャツ、ピカピカの靴、それはどれも、わたしがいかに自分に満足していたかを表している。両親は大いに喜んで私のために新しい服を買ってくれ、よい息子を持ったものだと、とても誇らしげだった。わたしも、自分が彼らの息子であることをありがたく思った。とくに思い出すのは、新しい靴を履いてどんなに気分がよかったかということだ。 そうした日々を過ぎ、これまでたくさんの旅をしたが、いかに多くの人々が、裸足の生活を余儀なくされているかをみてきた。いまのわたしは、新しい靴が持つ象徴的な意味を、以前よりはるかに理解している。裸足は貧困、そして奴隷の身分を示すことが多い。靴は金持ちと有力者のものだ。靴によって蛇から守られる。すなわち、安全と強さをもたらす。それは追われている者を追う者へと変えさせる。多くの貧しい人々にとって、靴を手に入れるのは脱出口を示す標識となる。アフリカ系アメリカ人の古い霊歌は、このことを次のように美しく表している。 「神の子たちはみな靴をもらった。天国に着いたら、わたしの靴を履こう。そそて、天国中を歩き回ろう」 帰ってきた息子に父は、神の子としての自由を表すしるしを身につけさせた。父は、自分の子のだれも雇われ人や奴隷であってほしくない。子たちに名誉ある着物を着させ、相続の指輪をはめ、栄誉ある履物を履かせたいのだ。それはまるで、神の寵愛を受ける年が開始したことを記念する授与式のようだ。この授与と開始の意味は、預言者ゼカリヤの第四の幻にもれなく綴られている。
「主は、主の御使いの前に立つ大祭司ヨシュアと・・・・をわたしに示された。・・・ヨシュアは汚れた衣を着て、御使いの前にたっていた。御使いは自分に仕えている者たちに向かって言った。「彼らの汚れた衣を脱がせてやりなさい。」また、御使いはヨシュアに言った。「わたしはおまえの罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。」また御使いは言った。「この人の頭に清いかぶり物をかぶせなさい。」彼らはヨシュアの頭に清いかぶり物をかぶせ、晴れ着を着せた。主の御使いは立ち続けていた。主の御使いは、ヨシュアに証言して言った。 「万軍の主はこう言われる。もしあなたがわたしの道を歩み、わたしの務めを守るなら、あなたはわたしの家を治め、わたしの庭を守る者となる。わたしはあなたがここで仕える者らの間に歩むことを許す。大祭司ヨシュアよ・・・・聞け、・・・・わたしは・・・一日のうちのこの地の罪を取り除く、その日には・・・・・・あなたたちは互いに呼びかけてぶどうとイチジクの木陰に招きあう。」ゼカリヤ3:1~10)
放蕩息子の物語を、心の内でゼカリヤの幻と共に読んでみると、息子たちのために着物と指輪と履物を持ってくるようにと父が命じた時に口にした、「急いで」という言葉には、人間のせっかちさとはほど遠い意味があることに気づく。それは、世の初めから準備していた新しい王国を開始することへの差し迫った神の思いを示すものだ。 父が贅沢なパーティーを設けたいと思ったことには疑いはない。とっておきの機会のために、よく太らせておいた子牛を屠らせたことは、父があらゆる制限を解き、かつて一度もあったためしがないほどの宴会を息子のために催したくてたまらなかったことが分かる。はち切れんばかりの父の喜びの現われだ。 命じたことがすべて整ったのち、父は叫んだ。「食事をして喜ぼう。この子は死んでいたのに、生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」と。そして人々は即座にパーティーを始めた。ふんだんなご馳走、そして音楽と踊り。その楽しいお祭り騒ぎは、家からかなり遠くても聞こえたことだろう。
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罪を徹底的に悔い改めて、それでもなお、残っている罪を洗いざらい吐いて・・・。まだ自分の内に赦されない罪が残っているのではないか。告白していない罪があるのではないか・・・思い出す罪を悔い改めなくては・・・、などということを随分昔、考えていたことがあった。 放蕩息子の父親の姿は、そのような恐れに満ちた思いを払拭させる。 今なお、自分の内側を見るときに、どうしようもない自分がある。あまりにもどうしようもないので、目をそむけて他のことに逃げたくなる。しかし、この方ご自身にのみ目を注ぎ、ただ信じて胸に飛び込むこと、それだけである。この自分ごと丸投げ、だ。 いつでも引き戻される御言葉は、 「あなたがたが、神が遣わされた者を信じること、それが神のわざです」 ヨハネ6:29 この御言葉に、ハッと我に返る。 単純に信じる、それだけでいいと思う。それだけで。 父の愛に真に帰郷し続けること、一度ならず、立ち返り続けること、それは点でなく線として。 どうしようもない自分を感じる度に、父の懐に丸投げし続けることだと思う。 弟息子は、この憐れみ深い父をどれほどの思いを持って、受け止めたことでしょう。 多く赦されたものは多く愛する・・・とあるように、この父の豊かな赦しは、どうしようもない息子を、父をより多く愛する者へと変えたことでしょう。 この宴から本当に始まったのは、失っていた父との真の関係であることを思わされます。 死んでいたのに生き返った、十字架を経た関係はゆるぎないいのちの中で生きる喜びがそこに満ちています。 父との関係を喜びつつ楽しみ、父と共に生きることで、さらに父を知り、やがて、彼が真の跡継ぎ、父に似た者として成長してゆく姿を、父が見ること、それは父の喜びではないでしょうか。
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最終更新日
2008年09月09日 11時21分58秒
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