カテゴリ:ヘンリーナーウェン
「憐れみ」と「感謝」、 宣教は、あなたが「共にいる」という奥義にあずかるときに起こるものです。受肉とは何よりもまず、神が共におられること、すなわちインマヌエルということであり、人々と共にいるということです。ケアする(caring)とは、「共に叫び求める」という意味です。憐れみ(compassion)とは文字通り、「苦しむ人と共にいる」ということです。宣教の働きとは、神の受肉を高く掲げることです。わたしたちはまさに弱い、傷つきやすい人々と共にいる存在であって、それを解決したり、変えたりするためにいるのではありません。それは意図せずもたらされる実です。そのためにそこにいるのではありません。憐れみこそが、イエスの祭司職です。 「ヘブル人への手紙」を読んでください。イエスは人間とまったく無縁であるどころか、人間への憐れみにあふれた大祭司です。イエスは何にも増して、わたしたちと共にいてくださる神です。30年もの間、ひなびた小さな村で過ごし、私たちと同じような生活をなさいました。福音を述べ伝えたのは、3年に過ぎません。ですが、霊的な見方をしさえすれば、イエスの宣教は公の3年間に行った説教だけではないことが分かります。その奥義は、私たちと生活を共にしてくださった、ということです。神は共にいてくださる神です。私たちの宣教は、病んだ人と、死にゆく人とともにいることであり、そこがどこであろうと、どんな問題であろうと、そこに共にとどまることです。 人々の持つ弱さに、あえてとどまろうではありませんか。そして、弱く、もろい部分に入っていくなら、計り知れない喜びを経験することになると信頼しましょう。それこそが宣教というものの奥義です。 わたしたちは、世界の問題を解決できないでしょう。しかし、人々と共にいることはできます。わたしは先月、2人の死にゆく人と共にいました。それは重荷ではありませんでした。そこには天へ移される場に立ち会う特権のもたらす深い喜びがありました。
☆彡*ー*ー*★彡*ー*ー*☆彡*ー*ー*★彡*ー*ー*☆彡*ー*ー*★彡 ー感じたことー
憐れみ溢れた大祭司イエス、この方に似るように召されている。 主は憐れみ深い大祭司となるため、すべてにわたって兄弟たちと同じようになられ、苦難を受け試みにあわれた。ゆえに試みられている人々を援けることができる方となられたのだ。 「この方はわたしたちの弱さを共に苦しむことのできない方ではなく、罪を別にすれば、すべてについて(私たちと)同じように試みを受けた方である。」ヘブル4:15 「確信を持って恵みの座に進み」ゆくのは、「時宜をえた援けをうるため、憐れみを受け、恵みを見いだすために。」それは、受け続けた私たちが、イエスのまことの祭司として、憐れみを注ぎ、流しだすという召しに与るためである。 それは次の聖書の箇所にも見出されるのではないか。 「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」マタイ18:33 共にいるということ、インマヌエルなるお方の名、その名が私たちの性質となるほどに似る者へと召されているのは、この地上で、なのだと思います。 イエスの行動は、父との深い交わりから流れてきたものでした。見えないところで見ておられるお方との深い交わりが、豊かに流れ出てゆく、そしてその流れは、上に向かってではない、水の流れは絶えず低いところを捜し求めるように流れてゆくのです。弱いところへ、痛んだところへ、そこにとどまることを求めて流れてゆくかのように。
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