カテゴリ:ヘンリーナーウェン
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」
イエスが、御父に杯を取り去っていただきたいと願う悲痛な祈りのさなかに、慰めの一瞬がありました。ルカだけがこれに触れています。 「すると、天使が天から現れて、イエスを力付けた。」ルカ22:43 悲しみの中に慰めがあり、闇の中に光が、絶望の中に希望が、バビロニアの捕囚の中にエルサレムの輝きが垣間見え、悪魔の大群の中に慰めの天使がいるのです。 信じがたいかもしれませんが、苦しみの杯は、同時に喜びの杯でもあるのです。自分の人生の中に、このことを実体験として感じた時初めて、その杯を飲む勇気があたえられるのです。
・・私たちの杯は、しばしば苦しみに満ち溢れていて喜びはまるで手の届かぬところにあるように感じられます。 しかし、ぶどうのように潰されてゆく時、私たちは、やがてそれが甘いぶどう酒になるなどとは、思いも及ばないのです。悲しみが私たちを打ち砕き、地面にたたきつけ、血の汗を流す程の苦悩を経験する時、いつか必ずそれと同じだけの喜びを、味わうことができることを思い出さなければなりません。 天使が彼に力を与えた後すぐに、イエスは立ち上がり、捕らえに来たユダと兵士に向かって進みました。そのときペテロが剣を抜いて立ち向かおうとしましたが、イエスは彼に向かって、「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」(ヨハネ18:10)と言いました。 イエスはもはや苦悩に打ちのめされることなく、内的自由を持って敵の前に毅然と立ち上がったのです。悲しみに満ちた杯を受けながらも、御父のみ旨を果たすべく、ミッションの完結へと導かれていることを確信する喜びを味わっていました。イエスの内からあふれ出る物凄い力を、ヨハネは次のように言っています。 「イエスはご自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「私である」と言われた。・・・イエスが「私である」と言われた時、彼らはあとづさりして地に倒れた。(ヨハネ18:4~6) イエスの御父への無条件の委託は、その杯を飲む原動力となり、それは、単に受身の受諾ではなく、死が栄光への道だということを完全に意識した上での積極的奉献であり、多くの実を結ぶ創造的行為でした。イエスの「はい」によって、イエスの死は、託された使命の中断という宿命の代わりに、新しい命の誕生をもたらしたのです。この無条件の受諾によって、一粒の麦は地に落ち、豊かな実を結ぶことができたのです。 喜びは、苦しみの中に秘められている!この言葉の真の意味を、私は自分自身の絶望的な体験の中で学びました。知的障害をもつ人々と共に生活し、病人の目を見つめ、最も貧しい人々と共にいることから学びました。私たちは、私たち自身の暗闇に圧倒されて、この事実を見逃しがちです。喜びの体験を忘れて、苦しみだけが現実であるかのように話しがちです。苦しみの杯は喜びの杯でもあり、惨めさの根源そのものが喜びの肥沃な土壌となることをお互いに思い起こす必要があるのです。イエスが天使に勇気づけられたように、私たちもお互いに、天使として励まし合い、力づけ合わなければなりません。人生の杯は、苦しみ悲しみの杯だけでなく、喜びの杯でもあることをはっきり悟る時だけ、それを飲むことができるのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年09月13日 12時53分35秒
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