カテゴリ:ヘンリーナーウェン
「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている。、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話になった。するとペテロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」 (マルコ8:31~32)
苦難と死に対するイエスの態度は、私たちとまったく異なっていました。イエスにとってそれらは、目を大きく見開いて直視した現実でした。じつのところイエスの全人生は、そのための自覚的な準備期間だったのです。イエスは受難と死を、望ましいものとして扱ったことはありません。それでも、それを拒んだり、避けたり、覆い隠したりせず、あえて語られました。 イエスはご自分の苦悩と死について何度も予告しました。十二弟子を任命したあとも間もなく、こう語っています。 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活する」 またその後すぐ同じ予告を繰り返します。「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は、人々の手に引き渡されようとしている」当時でさえ、その反応からはっきり分かるように、ペテロは現実から目をそらそうとしました。「するとペテロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」 イエスの返答は鋭いものでした。ペテロの反応は、真の霊的生活を求める人にとって、最も危険であるかもようないい方でした。 「サタン、引き下がれ、あなたはわたしを邪魔する者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」 その後、イエスは非常に率直に、もう一度弟子たちに語ります。 霊的生活を導こうとするものは、やがて来る苦悩や死を避けるわけにはいかない、と。 生きた霊性は、死の現実とじかに、まともに直面することを通してのみ成り立ちます。イエスがあえて語ったことに耳を傾けましょう。 「わたしについてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」 苦悩と死を通して新しい命を得ること、それこそが良き知らせの核心です。イエスは、その解放への生き方を私たちに先立って貫かれ、それを偉大なしるしとしました。 人間とは、いつになってもしるしを見たがるものです。厳しい現実から少しでも気をそらしてくれそうな、驚くべき、並外れた、興奮させられる出来事を求めます。天に輝く星(スター)であろうと、地上の人気スターであろうと、そこに人々が注目し続けるのは理由なしとしません。目を見張るような何か、例外的な何か、平凡な毎日の生活を中断させてくれる何かを見たくてたまらないのです。そのようにして、わずか一瞬でも、わくわくするかくれんぼをして遊びたいのです。しかし、「先生、しるしを見せてください」といった人々に、イエスはこう答えました。 「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も、三日三晩、大地の中にいることになる」 ここから分かることは、何が本物のしるしかということです。それは耳目を集める奇跡というものではなく、イエスの苦悩、死、埋葬、そして、復活です。偉大なしるし、ヨナも現実逃避しましたが、困難な任務を果たすために呼び戻されました。顔を背けることなく、苦難と死を直視し、神がくださる新しい命への希望を抱き、それを通り抜けること、それがイエスのしるしであり、イエスに倣って霊的生活を指導したいと望むすべての人々のしるしです。それは十字架、すなわち苦難と死という、全面的に新たにされることの希望のしるしです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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