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イエスの喜びと満足のために☆

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2008年09月28日
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      eyes0041.jpg

 

「 深い傷を負わされると、加害者を赦すまでは決して立ち直れないという厳しい法則がある。」

                 アラン・ベイトン

 

   1995年9月のある朝、コーヒーを飲みながら地方紙を読んでいた私は、地元に住む7歳の少女が白昼誘拐されたという見出しを見て驚いた。それから数日間、注意して事件の展開を追った。

 一週間もたたないうちに、少女は地元の刑務所から数百メートルも離れていない林の中で発見された。暴行を受け、ずたずたにされ、殴られて死んでいた。さらにひどいことに、犯人は少女の知り合いで、しかも少女が信頼していた男だと分かった。

 市民の反応は、予想通りだった。~この男は死刑にすべきだ。男は州の死刑法規が新しくなって初めての容疑者だった。州検察官は少女の遺体を見つけるために情報と引き換えに刑を最長20年減刑する約束をしていたが、数日後には「自分は少女を発見するために悪魔と契約をしたのかもしれない」と述べ、この約束を撤回した。そして近年のニューヨークでは最初の殺人犯を死刑執行室に送る州検察官になることを望んだ。住民たちは地方紙のインタビューで当局に犯人の釈放さえ要求し、自分たちの手で彼を「始末」したがった。

 この激しい怒りはよく理解できたが、一方で、そんなことをしても悲嘆にくれている犠牲者の遺族に慰めを与えられるとは思えなかった。牧師として、私は、自分のなすべきことに強い確信があった。私の教団の代表者に葬儀に行ってもらう手はずを整え、少女の両親に花を贈った。私は少女の家族を訪ねようとしたが、失敗に終わった。私の心はまだ重かった。何とかして殺人犯(現時点ではまだ顔の見えないモンスターだ)に会いに行き、彼が犯した行動のひどさを面と向かって突きつけ、彼が自分の犯行を本当に後悔することろまで持っていかなければならない。

 このような訪問は完全に誤解されるわけではないしても、人々が不信の目で私を見ることは分かっていた。しかし、それは私の義務だと確信していた。そういうわけで、数ヶ月後に私は一人で拘置所に行き、手錠を外された殺人犯と差し向かいで座ることになった。そこで過ごした数時間に私はひどくかき乱され、たくさんの疑問を抱える羽目になり、ついにはこの本を書くことになった。なぜ私が、また誰かがこの人を赦さなければならないのか。それで何が変わるのか。彼が改悛の情を表さなくても私は赦せるだろうか。表したとしても、そもそも私には彼を赦す権利があるのだろうか。彼は、私を傷つけたのではないのだから。

 私の訪問から3ヶ月もたたないうちに、殺人犯は裁判所で家族と対面した。法廷には人が詰めかけ、敵意もむき出しにしていた。「仮釈放なしの終身刑」という判決が言い渡された後、裁判官が付け加えた。「刑務所で科せられる地獄が、これから永遠に味わう地獄の前触れに過ぎないことを望む。」

 次に被告に発言が許された。彼は自分が少女の両親に与えている苦痛について「心から申しわけなく」思っていること、そして毎日「赦し」のために祈っていることを、大きな震える声で遺族に伝えた。怒りに満ちたささやき声がさざなみのように傍聴席に広がる中、私は最も難しい疑問を自分に問いかけていた。あんな男が赦されるのか、と。

 彼に初めて会ってから数ヶ月の間に、彼は目覚しい変化を遂げた。初めは感覚が麻痺しており、自分の犯罪は社会悪の結果であって、恐ろしいものであったとしても仕方のないことだと考えていた。しかし、今では、自分の犯したことの責任を受入れ始めている。自分のためではなく人のために泣く事ができるようになるために,生まれ変わることや赦しの必要を感じ、もだえ苦しんでいる。自分の犯したことの罪深さを直視し、次第に責任を認めて悔い改め始めているのを、私は面会を通して感じてきた。

 「あんな男が赦されるのか」人を変える赦しの力を真に信じるなら、彼が変わり得ることも信じるべきだ。もちろん、彼が犯した罪を過少評価したり、大目に見たりしてはいけない。しかし、彼が変わるチャンスも否定してはいけない。結局のところ、マーティン・ルーサーキングが経験したように、赦しは敵をも友人に変えることができるのだ。

    

☆彡*ー*ー*★彡*ー*ー*☆彡*ー*ー*★彡*ー*ー*☆

 

 この本(憎しみ続ける苦しみから人生を取り戻した人々の物語)は、赦すことが困難な、難しい、そんな辛い話が多い。しかし、赦すことを通して癒され、赦すほうも赦されるほうも自由を得、前に進むことができるというメッセージが込められている。

深く傷つけられた側、赦しを与える側にとって、なお乗り越えていかなければならない痛みがある事も見てきた。

これほどまでに赦すことに困難を覚えながら、なぜそれでも赦す事を選ぶのはなぜだろうか。赦しについて思い巡らしながら、ここにどんなメッセージがあるだろうか。

赦しということを理解してはじめて、見えてくるものがある。

十字架を負ってついてきなさい。と主は言われた。

十字架は死の象徴であるだけでなく、キリストの赦しの祈りが捧げられた場所、つまり、赦しの泉としての象徴である。

 「父よ、彼らを赦してください。彼らは自分で何をしているのか分からないのです」と祈られた。

痛みの真っ只中で、苦しみにうめく、その中で赦しを願ったキリストの姿を、この本の中の数々の赦すための証と重なって見えてくるのです

赦すことにとても困難を覚えながらも、それを赦した人々の決断と苦悩の中に、キリストがおられる。キリストの十字架から流れている赦しは、多くの人々にいのちをもたらし続けているのと同様に、

キ・リ・ス・ト・に・あ・っ・て赦すのその痛み、傷口からいのちが溢れ流れてくることを見るのです。

 赦すことは、主と共に十字架に継ぎ合わされる苦しみであり、主の痛み近くに置かれることだと感じます。

主は私たちを赦す事を通して、癒しの道を開かれました。

赦す事を通して、自由を得させてくださいました。

赦す事を通して、神と敵対していた私たちに和解を与えてくださいました。

赦すことを通して、友と呼んでくださいました

赦す事を通して、いのちをもたらしてくださいました。

私たちが、キリストのあって赦すことは、キリストの赦しに共に継ぎ合わされることであり、継ぎ合わされたのなら、キリストの赦しからほとばしり出る同じいのち、力があなたの傷口を通して、溢れ流れてくるでしょう。

癒しをもたらし、自由を得、敵をも友に変え、いのちをもたらす、これは主が私たちにお与えくださった何ものでもありません。それは私たちが豊かに享受し、与えられたものを分かち合うことでますます豊かになり、喜びに満ち溢れるようにと、主は語られるのです。

赦すことの痛みは、「父よ彼らをおゆるしください」と祈られたキリストの痛みと深く結び合わされた痛み、しかし、それでも、本当の重荷は主ご自身の肩にかかっていて、あなたにかかるくび木の重みは軽いことに気づくのです。

主と共に十字架を負うことは、あなたの霊的ないのちに輝きを与え、主の甘さを感じながら喜びを持って主に近づき、十字架に口付けすることでしょう。

  「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。 」

あらためてこの御言葉の意味を深く思います。









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最終更新日  2008年09月28日 15時22分37秒
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