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イエスの喜びと満足のために☆

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2008年10月02日
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 「あるとき、私は重い病を患った友人から訪問して欲しいと頼まれました。53歳ぐらいの方で、とても活動的で有能、誠実かつ創造的な生活をしてきた人です。実際彼は社会活動家で、世話を必要とする人々、特に貧しい人々のために深く、関わってきました。ところが50歳になった時、癌に冒されていることがわかりました。それから3年を経るうち、彼はだんだんと動けなくなりました。私が訪ねた時、彼はこう言いました。

 「ねぇヘンリ。ごらんのように私はベッドで寝ているだけの生活だ。この病気をどう受け止めたらよいかさえわからない。これまで私が考えてきたことはすべて、動き回っている間のことだった。とくに、人のために何かをしている時のことだ。多くのことをたくさんの人にすることができたから、私の人生には価値があった。

 ところが突然、こんな自分になってしまった。他人のお世話になるばかりだ。もう自分は何もできない・・・・。こんな状態を新しい目で見直せるように助けてくれないか。絶望感に捕らわれないために、もう何もすることができない自分を、どう考えたらよいかたすけてくれないか。ここにいろんな人がやってきては、私が何も手出しもできないことを私にしている。その意味を理解できるように助けて欲しい。」

 友人と話しながら私は、依然として彼は「自分はどれだけのことができるか」と模索していることに気づきました。どういうわけか彼は自分のしたことに自分の存在価値があるという考え方を身につけていたのです。ですから病気になったいまも、元気になって、かつてのように活動的な自分に戻れることに希望をおいているようでした。しかし、そうした考えに希望が持てないことは明らかでした。彼は悪性の癌に冒されていますし、病状は悪化の一途をたどっています。彼はまもなく死を迎えます。ですから、もし友人の生きがいが、これからどれだけ多くのことができるかに根拠を置く限り、私に言えることがあるでしょうか。

こうした考え方を検討するために、「待つことにおける成長」と言う本の中の、イエスのゲッセマネの園における苦悩と十字架にいたる道について、活動的な生活から、受難へとイエスが移られた意味をより深く理解することができました。

 

ナーウェンは言います。

「イエスが十字架にかけられた場面で、「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と言われたのは、「自分のしたいことをすべて行った」という意味だけではないことに気づくことです。それは、私の使命が私において実現するために、私に行われる必要のあることを、なされるままにした」ということをも意味したのです。イエスはご自分の使命を活動によって成し遂げたばかりでなく、受難によっても成し遂げました。実現するようにと天の父がイエスに授けた使命を成し遂げただけではなく、御父がイエスの上になされるにまかしたことをそのまま引き受けることによっても成し遂げたのです。」

 主に従うということが2つの面があり、活動すること、そして、受難を引き受けることの両面があり、私たちの霊的生活全体に大きく関わっている第二の側面、受難それは、すなわち待ち望む事だと言えます。それは他の人々が行おうとしていることを待つことです。イエスは、町の住人に良き訪れを述べ伝えるために、エルサレムに登られました。そしてそれは、人々に選択を迫るものであることを承知していました。つまり、「私の弟子となりますか、それとも死刑執行人になりますか。」と言うことです。ここに中立点はありません。イエスがエルサレムに行ったことで、「はい」か「いいえ」のどちらかを言わざる得ない立場に人々を追い込んだのです。

 ここにイエスの受難の偉大なドラマがあります。すなわち、イエスは、人々がどう応答するか待たねばなりませんでした。人々はどうするでしょうか。それともイエスに従うでしょうか。

 このように、キリストの苦悩は単に死に向かって行く苦悩だけでなく、待たねばならないという苦悩を引き受けることでもあります。

 神が聖なる存在として私たちの中で生きることができるかどうか私たちにかかっていることは、神の苦しみです。非常に不思議ななさり方ですが、神としてどうなるかの決定を私たちに任せるとは、神の苦しみです。

 ここに神の受肉という神秘を垣間見ることができます。神が人となられたのは、私たちの内で活動するためだけではなく、私たち人間がどう応答するかを受け止める側になられたと言うことです。あらゆる活動は受難に行き着きます。というのは、私たちの行った活動に対し、どんな応答が返ってくるかは、私たちの手の及ばないことだからです。これが仕事の神秘であり、愛の神秘であり、友情の神秘であり、共同体の神秘です。それらは常に待つことに関係します。またこれこそイエスの愛が示している神秘です。

 神は私たちの応答を待っておられるキリストの内にご自身を現されました。まさにその待つ姿勢によって、神の愛の強さが私たちに現されたのです。もし、神が私たちに愛を強要するなら、私たちは真の愛する人とはならないでしょう。

 イエスの受難に見出せるこうした洞察は、友人との議論において非常に重要なものでした。彼は一生懸命沢山の仕事をしてきた後、待たねばならないことを理解しました。彼の人間としての使命は活動においてだけでなく、彼の受難のなかでも満たされることを受け取るようになりました。こうして私たちは、まさにこの待ち望むことの中に、神の栄光が私たちに示されるのだということを理解しはじめました。

 復活とは、死後のいのちをさすだけではありません。それはまず第一に、キリストの受難、すなわちイエスの待ち望む姿勢の中に、忽然と立ち現れるいのちのことです。イエスの苦しみの出来事は、受難の真っ只中をつきぬけ、すでに復活が存在していることを示しています。・・・

 

 私と友人はふいに、神の栄光、神の聖性というものがまさに、イエスが最も犠牲を強いられた受難のさなかにほとばしり出ていることを実感しました。すなわち新しいいのちは、イエスが死からよみがえられた3日目においてだけでなく、すでに受難においてすなわち引き渡されるさなかにおいて目に見えるものとなったのです。なぜでしょうか。それは受難の中にこそ、神の愛が余すことなく光輝いたからです。それは待ち望む愛であり、ものごとを操作しようとしない愛です。

 ですから私たちは自分になされていることを十二分に感じることができたなら、それまで気づきもしなかった新しいいのちに触れることができるようになるでしょう。これこそ友人と私が、ずっと問題にしてきた点でした。友人は自分が受けてきたこれまでも受難のさなかで、新しい命を味わうことができたでしょうか。病院のスタッフにされるがままの状態の中で、深い愛を自分が受け取るための準備がされていたと見ることができたでしょうか。それはすべての行動を支えた愛です。しかし、彼は十二分に味わえませんでした。

 いまようやく友人と私は、苦しみと受難のさなかに、すなわち待ち望むことの中に、すでに復活を経験することができることに、気づきはじめました。

 

 この世界に目を転じて見ましょう。その中で、どれくだいのことが、実際に自分の思い通りに操作できているでしょうか。むしろ、私たちの人生の大きな部分は受難であると言えないでしょうか。様々な仕方で私たちは、他の人たち、出来事、自分の置かれている文化、私たちの手の及ばないたくさんの要因によってされるがままの状態であり、自分から、働きかける余地はほとんどわずかのように思えます。このことはハンディを負っている人慢性疾患で悩んでいる人、老人、経済的に窮しているたくさんの人々のことを考えてみればはっきりします。私たちの社会では、ますます多くの人が自分の存在にかかわる決断への影響力を失いつつあるように見えます。ですから、他から自分になされることを意識しつつ待ち望むことに、私たちの存在の主要な部分が深く関わっていることを認めることは、ますます重要になってきています。

 イエスの生涯は、自分の思い通り操作しないことが人間であることの大切な部分であることを教えています。イエスの使命は活動においてだけでなく、受難、すなわち待ち望むことにおいても全うされたのです。

 こうしたメッセージが、今の世界の人々にとって、どんなに重要であるかを考えてみてください。もし、イエス・キリストにある神が、神の愛への私たちの応答を待たれていることが真実なら、人生において、待ち望むことについてまったく新しい見方を発見することができるでしょう。つまり、活動的な生活に戻らねばと絶え間なく、求めるのではなく、受難の中に、すなわち、待ち望むと言うことのなかに、私たちももっも深い人間性の充足を認める従順さを学ぶことができます。

 もし私たちが、そうするなら神の栄光に触れるだけでなく、私たちの人生は新たにされるだろうことを私は確信しています。その時、私たちの他の人への奉仕は、彼らが活動的なときだけでなく、世話される状態であったとしても、神の栄光のきらめきを仰ぐ助けとなるでしょう。待ち望むという霊的な生活は私たちが神を待ち望むだけの生活ではありません。それは神ご自身が私たちを待っておられる御業に加わることであり、そうすることで、最も深い愛、すなわち、神の愛にわたしたちが与ることです。

 

 

 

 


 

   






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最終更新日  2008年10月02日 22時59分04秒
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