カテゴリ:ヘンリーナーウェン
死というものは、究極的な別れでしょうか。 死を人々から引き離す出来事として迎えるならば、死は悲しみと悲嘆に満ちた出来事に過ぎません。しかし、わたしたちの死すべき運命が他の何よりも人との連帯へと私たちを導くものであると意識するなら、人から私たちを引き離す代わりに、死は私たちと一致させることができます。死は悲しみの代わりに、新しい喜びを与えてくれます。死は単に生涯の終わりとなってしまう代わりに、何か新しいことの始まりとなることができます。
☆゚+.☆゚+.☆゚+.☆゚+.☆゚+.☆゚+.☆゚+.☆゚+.☆゚+.☆゚+.☆゚+.☆゚+.☆ 死がもたらす一致の中へ。??? と、ばかばかしく聞こえるかもしれませんが、この言葉の意味を知る経験を今年の4月、母の死を通して味わいました。
不思議ですが、母が倒れるちょうど一週間前、私はデジカメを持って実家へ行き、みんなで撮る事にしました。デジカメの向こうに移る母の顔を見ながら、ふと、母の遺影になるのでは・・と変な予感を感じながら、「まさか・・・何考えているんだろう・・私。。。」と思いつつ、母に「笑って~!!」と一枚撮りました。珍しいぐらいとてもいい笑顔の写真が取れました。 その写真が本当に母の遺影になるとは・・・。あの時すでに主が示してくださっていたことを改めて感じました。 母が危篤状態になって病院に担ぎ込まれ、すでに心停止を2回も起こしており、またいつ心停止になるか分からない状態でした。病院に着いて、母の顔を初めて見たとき、不思議な平安が満ちていました。母の顔をなでながら、 「大根、つまらしちゃったんだね・・おかあさん」と話しかけました。 なぜあのような状態で、平静な気持ち、いえ、むしろ、穏やかな気持ちに満ちていたか、分からないほど、静かでした。 病室で、母とはじめて主を礼拝し、賛美しました。 母への愛しい気持ちが思いに溢れ、「ありがとう、おかあさん」と語りかけたとき、内側から母の懐かしい口調の「ありがとね~」という声を感じたのです。 母が亡くなり、葬儀になっても、不思議と悲しさはありませんでした。 母の肉体は朽ちてしまったけれど、母は主の中におり、同じ主の中に入れられた私たちも主と共にいるように、母も共にいることを、それはむしろ、肉体を持って生きているときよりも、より近くに感じるほど、母が主のひとつの中にあることへの確信が、別離の悲しみを拭い去り、喜びさえも感じていたのです。
「死は勝利に呑み込まれた。 死よ、汝の勝利はどこにあるのか。 死よ、汝の棘はどこにあるのか」 コリント第一15:55 死はもはやただ単に、失われる悲しみではなくなったのです。生きている者(神の御前でいのちを与えられ救われたすべての神の子たち、主にあって先に召された聖徒たち)の神は、十字架の購いによって、死の壁を打ち壊し、別離の悲しみさえ拭い去り、深い悲しみを深い喜びへと変えしめる力あるものです。 それは神が私たちの間に住まわれ、共におられるゆえに、なのです!黙示録の御言葉にあるとおりです。 「今や、神の幕屋が人の間に立てられ、神が人と共に住まわれる、人は神の民となり、神ご自身が人と共におられ、彼らの神となられる。神は人の目から、流れる涙を一滴残らず拭い去ってくだっさる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きもない苦労もない。古い秩序の事柄は消え去ったからである。」 黙示録21:3.4(岩波訳) これは遠い未来の話ではありません。神ご自身が涙を拭い去ってくださるのです。どうしてさらに悲しむことがあるでしょう。悲しみが拭い去られるとは、ハンカチを渡されるようなものではありません。神は真理によって涙をぬぐってくださるのです。もはや泣かなくてもよいという確信が与えられ、潮が引いてゆくように涙が引いてゆくことを知るでしょう。 主の中にいるという一致は、人の手による一致ではありません。距離や場所、時空を超えて、もはや死さえも引き離すことができない、御父と御子の完全なる一致の中へ入れられてしまったのです。私たちはイエスキリストによって、ともに天の所に座らされているのですから。
ナーウェンは語ります。 「死ぬことの貧しさの中に、隠された祝福があります。それは同じ神の国において兄弟姉妹となる祝福です。それは死んでいく人から受ける祝福です。そして、私たちが死ぬときに他人に与えることができる祝福でもあります。永遠のいのちの神から来る祝福であり、私たちの誕生と死をはるかに超える恵みです。私たちを永遠から永遠へしっかりと渡す祝福なのです。」
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最終更新日
2008年10月08日 21時18分22秒
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