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イエスの喜びと満足のために☆

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2008年10月09日
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イエスの生涯は40年足らずでしたが、自分の郷里の外に旅することもなく、生きている間に出会った人々は彼についてほとんど分かっていませんでした。彼が死んだ時は弟子の数人しか忠実についていませんでした。あらゆる点で彼の生涯は失敗でした。成功も人気も消えてゆき、権威のすべては失われました。それでも彼の生涯ほど実り豊かなものはありません。彼ほど人の考えや、感情を深く感化し、未来の文化、人間関係のパターンを決定的に形づくった人はいません。イエス自身、自分の生涯の実りは死後初めて明かされるということについて話していました。彼の弟子たちが、彼の言ったこと、行ったことを理解しないとしばしば強調していましたが、必ずのちにそれを理解するであろうと語っていました。イエスがペテロの足を洗った時、「私のしていることは、今あなたにはわかるまいが、後で、分かるようになる」(ヨハネ13:7)と言いました。イエスが御父のもとに帰る時のことを語ったとき, 

「わたしはあなた方といたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。   (ヨハネ14:25~26)イエスの生涯の完全な意味は死後初めて明かされたのです。

歴史における偉大な男性や女性の生涯についても同じことが言えるのではないでしょうか。ブラザーローレンスは多くの例の中のひとつに過ぎません。この素朴な平信徒の助修士は1614年から1691年の間、フランスのカルメル会の勉学修道院で、料理人としてまた靴職人として生活していました。彼の死後、「神の現存の内に歩む」についての思索や書簡が公にされ、今日までも多くの人の霊的生活に多大な影響を与え続けています。ローレンス修道士の生涯は目立たない中にも、実り多いものがありました。ローレンス自身は他の人々の人生に影響を及ぼすなどと、毛頭思っていませんでした。彼の唯一の願いは、すべて為すことが神の現存の内に行われるということでした。私たちが死ぬ前の真の問いかけは、どれだけ私が業績を残し、人々にどれだけ影響を及ぼせるかということではありません。私が友人や家族のもとを離れたときに、どれだけ実りをもたらすことができるように生きられるか、ということです。その問いかけは、私たちの注意を業績にではなく、存在そのものに向けるのです。私たちの行為は成功をおさめますが、存在そのものは実りをもたらすのです。人生の大きな逆説は次のことだと思われます。つまり私たちがいつも気にしていることは、何ができ、あるいはこれから何ができるか、ということであるにもかかわらず、実際に記憶に残るのは、どういう人であったか、ということなのです。聖霊が私たちの人生を導くならば~その聖霊は愛、喜び、平和、優しさ、許し、勇気、忍耐、希望、そして信仰の霊~その聖霊は世代から世代へと成長し続けるのでしょう。

 マリナの死と私自身の死について考えるとき、人生最大のチャレンジがなんであるかを悟ります。わたしが今生きている社会が、私の人生の目に見える成果を求め続けているとき、その成果というものは、もしかしたら消え去ってしまうかもしれないということを私は徐々に意識しなければなりません。人生において最も重大なことは、私の人生がどのような実りをもたらすかということです。私が年を取って弱くなればなるほど、為し得ることは段々と少なくなってきます。私の肉体も頭も衰えてきます。目は徐々に字が読みにくくなり、耳は隣にいる人の言っていることが聞こえなくなるでしょう。記憶力は衰え、何回も冗談を繰り返すようになり、批判力は鈍くなり、私の話はいつも退屈になってしまいます。それでも神の霊が私の弱さの中に示され、自由自在に働かれ、私の肉体や頭が衰えても実を結ぶと信じています。それで私の死は本当に新しい命へと誕生するのです。何か新しいものが生まれ、それについて今は考えることも表現することもあまりできません。その新しい誕生は、私の個人史をはるかに超えるものであり、代々受け継がれ、永遠に生き続けるのです。このようにして、私は新しい親、未来の親となるのです。

カリフォルニアのオークランドにあるエイズに苦しむ人たちのカトリック施設、ベタニヤの家のリックを訪ねました。リックの手を握り締め、恐れに満ちた目を見たとき、彼に残されている短い時間は、生き残りのための負け戦よりももっと勇気と希望に満ちたものでありえると私は感じました。私が彼に信じて欲しかったことは、彼に残されている時間の中でもはや何もできないその状態の時に、彼にまだ何ができるかではなく、その無力さの中にある実りが一番大切だということでした。私たちが一緒に過ごした病室でリックは言いました「僕の友達は、みんな将来があるんだ。でも、僕は死を待つしかないじゃないか。」私はなんと言っていいのか分からず、多くの言葉を語っても無意味だと分かっていました。だから何も言わずに片方の手で彼の手をしっかり握り締め、もう一方の手を額におきました。彼の涙いっぱいの目を見つめて私は言いました。「リック、怖がらないで。怖くないんだよ。神様は僕が君のそばにいるより、ずっと近くにいるんだから。君に残されている時間はね、君の人生の中で自分のためだけではなく、君を愛し、君に愛されている皆のためにも一番大切な時間なんだ。」そう言っているうちに、リックの身体から緊張がほぐれ、涙の中から微笑が浮かびました。彼は言ったのです。「僕は君が言っていることを本当に信じたい。心から信じたいんだ。だけどとても難しいんだよ。」

 私はリックや彼のように死んでいく若者のことを考えるとき、体中に抵抗を感じるのです。エイズと戦っている人々が負け戦に立ち向かっているのだと考えることは誘惑だと知っています。私は自分の信仰を必死で奮い起こし、この人たちの死がいつかは実りをもたらし、彼らはやがて来るであろう次の世代の親になるように呼ばれているのだと信じています。死と慣れ親しむために、私たちは神の子で、すべての人と兄弟姉妹であり、次の世代の親であるということをしっかり確信していなければなりません。そうするならば私たちは死の非合理を払いのけ、新しいいのちへの門とすることができるのです。私たちの社会では、幼児期は捨て去られ、戦争や部族的対立は人々の兄弟姉妹としての絆を断ち、最大の関心事は自分に与えられている人生の何年かで成功することにあると強調される中で、死が何かの入り口であるなどということは到底考えられません。それでもなお、イエスは私たちのためにこの道を開いてくださったのです。私たちが彼の生き方と死に方を選ぶ時、聖パウロが嘲って問いかけた言葉を借りることができます。「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前の棘はどこにあるのか」 コリント15:55

 これはひとつの選択ではありますが、非常に難しい選択です。私たちを囲む闇の力は力強く、死の恐れに私たちの考えや言葉や行動はたやすく支配させられてしまいます。しかし、私たちはイエスがしたように死と親しむ選択をすることができます。神の子として人々と連帯し、究極の実りに信頼して生きることを選択できます。そしてそうすることによって、私たちは他の人を介護する人となることができます。死すべき運命の現実に直面した女性や男性として私たちは兄弟姉妹の死の闇を払いのけ、神の恵みの光へと導くことができます。☆゚+.☆゚+.☆゚+.☆゚+.☆゚+.☆゚+.☆゚+.☆゚+.☆゚+.☆゚+.☆゚+.☆゚+.☆

私たち人間は生きている間、何ができるか、ということに自分の存在価値を見出して生きていると言っても過言ではありません。何ができるかという問いかけは、できることが価値あることで、何もできない状態に置かれたとき、絶望し、自分の存在価値を見失い、苦しみます。

 「私たしたちは神のわざを行うために何をすべきでしょうか」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わしたものを信じること、それが神のわざです」(ヨハネ6;28.29)これは何ができるか、という思いに縛られている私たちへのチャレンジです。彼、イエスを信じることが、神と共に神のわざに与ることであり、何ができるか、というこの世の価値観を手放し、神の価値観、「遣わされたものを信じる」この中へと飛び込み、身を任せることを通して、神の安息の中へ、主ご自身の御手をもって導いてくださる人生の中への招きです。無力さにとどまることの祝福は想像を超えています。神が私たちにお与えくださったいのちは、私たちの内ですべてのことをしてくださるのです。

自然の中に目を向けるとき、種は次の世代にいのちをつなぐために、土深いところで死にます。しかしそこから芽吹いたいのちを種は見ることはできませんが、たわわに実る穂を私たちは知っています。死はわたしたちに一粒の麦となることへのこの世にあって成し遂げる最後の召しです。豊かな実りは種の内にある命の中にすでに備わっているのです。種にできることは、内に与えられたいのちを信じること、そこに安らうことです。種そのものをほめる人は誰もいませんが、その種によってもたらされたいのちの実りは多くの人を食べさせ、豊かにさせるのです。その実りはいのちの恵み。召される時に兄弟姉妹がもたらしてくれる実りであり、また私たちが召される時にも、もたらすことができる実りなのです。その実りを私たちの内で、熟させてくださる主を、ただ、信じることであると、思わされています。死を避けなければならないものとして見つめる時、そこに自由はありません。自分を救おうと思うものはそれを失うのです。

 しかし、イエスのように死をまっすぐに見つめ、受け止める、それは決して死をあえて求めているとか、あきらめということではありません。また、この体の癒しを求めることが間違っているとかではありません。体の病の癒しを私自身も信じています。しかし、人はいつかどのような形であれ、死の扉の前に立つときがやってくるのです。ラザロはイエスによってよみがえらされましたが、再び死を迎えなければならなかったように。朽ちるものが不死なるものを着るために死を通るのです。それは敗北ではなく、勝利であり、死を通して、真に癒しを受けると言えます。

 まっすぐに十字架に向かわれた主は、弟子たちを余す所なく愛され、最後まで与えられた時を人として生き抜かれたのです。ゆえに彼の死は豊かな実りをもたらし、癒しをもたらし、いのちをもたらしたのです。「死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた」(ピリピ2:8)ゆえに神はキリストを高く上げられました。従われるということは、目をそむけることなく、まっすぐに見つめることでなくてなんというのでしょう。

死は、赤ちゃんが暗い産道を通っていくのに似ているのではないでしょうか。痛みは伴いますが、死という産道を通る時でさえ主は共にいてくださいます。無力さの極みである赤子を産道の向こうで、受け止めてくれる存在がいるように、第二の幼児期、無力さの中に再び生れ落ちようとするいのちを、主ご自身が受け止めてくださるのです。ただ、このお方の中で生き抜くこと、主はまことの農夫として、たわわに実る豊かな実りを、私たちの内にすでに備えてくださっていると信じます。






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最終更新日  2008年10月09日 10時38分11秒
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