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イエスの喜びと満足のために☆

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2008年10月13日
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       私たちが死に親しむということは、一生かけての霊的な課題であり、様々なニュアンスを持ちながら仲間としての人間関係に深い影響を及ぼします。自己認識を深める一歩一歩は、自分の人生を分かち合う人々とより強い絆を結びます。私たちが時間をかけて、死には棘がないという真実を体験の中で学んでいく課程において、その同じ真理を見出せるように人をも導く賜物を自分の中に発見します。私たちはふたつのことのうちどちらかを一方を先にして、次にもう一方をするわけではありません。自分の死に親しむということと、他人がその人たちそれぞれの死に親しむのを助けることとは切っても切れない関係にあるのです。神の霊の世界において生きるということと、他人を介護するということはひとつなのです。

 私たち社会は、人を介護することと生きることは全く別なことであって、介護というものはもともと特別な訓練を受けた専門家に属することと考えています。訓練は確かに重要なことであり、ある人たちは自分の専門職をしっかりと果たすために準備が必要ですが、介護するということはすべての人の特権であり、すべての人の心の中心にあるのです。専門職という言葉の語源を追求すると、その用語はまず自分の奥底の確信を表明することを示すので,生きることと介護とは霊的にひとつであるということがはっきりしてきます。

 私たちは最終的には何に向かって進んでいるのでしょうか。能力が衰え、やがて肉体が塵に返るだけなのか、あるいは、感嘆すべき恵みの生きた証となっていくのでしょうか。

 私たちはこの極端に違った視点のどちらかを選択しなければなりません。私たち自身や他の人の衰えゆく能力を神の恵みへの入り口として見なすことは、信仰の選択です。その選択の土台となるのは、イエスの十字架を失敗としてだけではなく勝利として、破壊としてだけではなく新しいいのちとして、裸だけでなく栄光として見るのだという確信です。愛する弟子ヨハネがイエスを見上げ、その槍で貫かれたわき腹から流れ出る血と水を見たとき、彼はすべてが終わったという証拠以上のものを見ました。彼が見たのは「彼らは槍で貫いた御方を見上げるだろう。」と言う預言の成就であり、神の死を超える勝利、神の驚くべき恵みのしるしを垣間見たのです。ヨハネは次のように書いています。

「それを目撃した者が証しており、その証は真実である。その者は、あなた方にも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている」 ヨハネ19:35

 これは信仰の選択です。すっかり体も脳も冒されたとき、老いゆく身体はその臨終と死を通して、私たちに驚くべき恵みがもたらされると言える選択なのです。

それは私たちが臨終を迎える人たちを優しく暖かく神の子として世話をし,貧しい人、依存症に苦しむ人、エイズと癌に苦しむ人の中に、わたしたちがイエスの顔をみることができるようにさせてくれる選択です。イエスの霊によって心動かされ、死に直面している人の中に霊を見る事ができるようにさせる選択です。

最近私は、知的障害者たちを介護するキリスト教関係の施設数箇所の指導者たちの会合に出席しました。その人たちが言うには、私たちの自由貿易の経済界の中で、介護をいう用語は受容と供給の観点から使われます。これを背景にして考えると、苦しんでいる人は介護を買い求める商人となり、介護の専門家は介護を売る商人になるのです。このような言語によると、人の臨終と死を祝う人にとって、もはや励みにならないビジョンとなってしまいました。感謝すべき恵みは低俗な商売の取引に変えられてしまったのです。

 

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 「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」 詩篇116:15

 この御言葉を思い出した。

 生きることの意味を失っている人にとって、介護の持つ意味を知ることは難しいのかもしれない。介護が商売の道具と化していても不思議はないのかもしれない。

 介護だけではない。死について考える時、その葬儀にも同じことが言えることだと感じる。

 母の臨終に際して、葬儀の準備、段取り、すべて一方的な説明が続き、淡々と進められていった。お金を出せば出すほど、祭壇が豪華に飾られ、すべてセット価格でいくらいくらと、見積もりがなされる。ざっと見積もっても、すべて込みで約150万。出産よりも、ずっとお金がかかるのは、なんだか変な話だ。

葬儀が始まってからも、すべての手順がこなされることだけに気を配られ、死を受け止め、痛み悲しむ間もなく、言われたことだけが進めてゆく。まるで流れ作業と同じだ。

納骨する時さえも、金額によってその扱いが変わってくる。永代供養や納骨される場所によって、金額が随分違う。少しでも本堂に近いほうが高くなる。骨になってまで、お金がある人はよい場所に落ち着ける?それが宗教であり、商売なんだと感じた。

死は主の御前に本当に尊いもの。

親しい人の死を受け止める、死に親しむことができる葬儀には、そこから受けることができる恵み満ちている。商売と宗教はそれを台無しにしてしまっている、そう思えてならない。

 生花に飾られた立派な祭壇なんていらないと思う。ただ本人の写真一枚があればいいのではないかを思うのです。流れも決まったものでなくてもいい。互いに死を受け止め、そこから流れてきたいのちに共に与り、受けた恵みを分かち合い、自由に主がたたえられる礼拝、そんな葬儀がいいと思うのです。

日常の中にある死を共に受け止めることの大切さは、どんな生花に彩られた高価な祭壇が用意されるより、ずっとずっと価値あることのように思います。主の恵みは死の中にさえ満ちていて、真に味わうことができる、死を超えたいのちと慰めが満ちているからです。

 

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」ローマ8:37~39

 

 

生きることと、介護することはひとつ、という真理を知ることは、何のために介護するのかわからないという問いに、真に答えるものであると信じます。

 

 

 

 

 






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最終更新日  2008年10月13日 23時22分41秒
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