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「 憐れみ 」
言葉で言い尽くしがたいほどの イエスのその内側から溢れ出る思い イエスから流れてくる「憐れみ」は、私たちが他の人に対して持つ表面的な感情や悲しみや同情というようなものとはまるで違う。 主イエスの存在の中心から溢れ出るもの、それは霊の内に、痛み苦しむ人の痛みそのものの中に入ってこられた、全くの同じ痛みの中にまで降りてこられたところから感じるものだ。 全く同じ場所、全く同じ痛み、全く同じ悲しみの中にまで降りてこられ、苦しくて、かがんでいるその同じ所に共にかがまれる。憐れみに動かされたイエスの思いは、同じ場所に立つところから溢れ、人の思いをはるかに超えているのです。 神が人となられた、この地上に来てくださった、というのは同じ世界に来られた、ということ以上に、さらに、深く、人の内側のさらに奥深くにまで来てくださったということなのです。 共感するということが、まるで同じ神経に繋がれたかのようにご自分に感じておられると、いうことです。 あなたのうちの一部、いえ、すべてになって、同じ痛みを経験し、同じところで共に涙し、共におられる。 神の最も深い部分、霊的な内臓から溢れ出てくる、彼の完全な感受性のすべてで悲しみの奥底まで感じ取り、そこから溢れ出た「憐れみ」が、聖書の中に現された癒しの物語であるのです。 ナーウェンは次のように語っています。 「すべての感情、衝動、情熱が、神の愛の中で一つになっているのです。イエスが憐れみに動かされると、すべてのいのちの源が、揺り動かされ、すべての愛の土壌が裂けて開かれ、神の限りない、無尽蔵な計り知れない優しさの深い淵が、その姿を現すのです。・・・ 私たちに現された偉大な神秘は、罪のない神の子であるイエスが、まったき自由の内に、わたしたちの痛みを共に苦しむことを選ばれ、、そうすることによって、私たちのうちにの本来の姿を発見できるようにしてくださったということです。イエスの内に、本来の私たちの姿を見出し、体験するのです。神である方が、私たちの損なわれた人間性を呪いとしてではなく、祝福として生きられるのです。(創世記3:14~19)その神のあわれみが、罪深い自己を目のあたりにできるようにしてくださったのです。なぜなら、私たち人間の損なわれた状態を絶望の理由ではなく希望のもとへと変容してくださったからです。これが、イエス・キリストは神のわたしたちへの連帯をあらわしていということの意味なのです」
神を知るということが、イエスの内から溢れ出た憐れみを内に経験、体感することだと思います。 主が腸(はらわた)で感じられたご自身の思い、そこから溢れ出た憐れみを、内に与えられたいのちによって知ることです。 どうしてそんなことを知ることができるでしょうか。聖書は語ります。 神が恵みによって与えてくださったものを、知ることができるように、神からの霊を受けた(コリント第一2:12)・・と。 神の憐れみのど真ん中、腸の中に、私たちはいるのです。
「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます」 第一ヨハネ4:15
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