カテゴリ:ヘンリーナーウェン
霊的ないのちとは、聖霊の内にあるいのち、あるいはもっと正確に言うなら、私たちの内にある聖霊のいのちです。それは私たちをあたらしい思いによって新しい時の中で生きてゆくのを可能にしてくれる霊的ないのちです。 これを理解したなら、祈りの意味がはっきりしてきます。それは、私たちの内におられる聖霊のいのちの現れです。祈りは、私たちによって成されるものではなく、むしろ、わたしたちの内におられる聖霊によってなされるものと言えましょう。 「聖霊によらなければ、だれも、イエスは主である。と言うことはできません」 コリント第一12:3 「同じように聖霊も私たちの弱さを助けてくださいます。私たちはどのように祈るべきかを知りませんが、聖霊ご自身が、言葉に表せないうめきをとおして、私たちのためにとりなして下さるのです。人の心を読み取るお方は、聖霊の思いがなんであるかをご存知です。聖霊が、神の御旨に従って、聖なる人々のために執り成すからです。」 ローマ8:26.27 ☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…
祈りが内なるいのちの現れ・・ならば、そのいのちが現されるために、祈りにおいて、十字架の死にとどまり、まったき貧しさの内にとどまることではないだろうか。 御名を呼ぶことができることさえ、聖霊によらずしてできない。全くの貧しさの中にあることを真に知ることから、いのちの現れとしての祈りが、内から溢れ出てくるに身をゆだねることなのだと思う。 とどまること・・それは決して消極的なものではない。そこに流れている思いは、神への深い信頼、御顔を慕い求める希望の内にとどまることを意味する。 復活の主を信頼するその場に座り続けることであり、やがて時が満ちて、ご自身のいのちへと導いてくださることを真に待ち望む希望に満ちた、とどまりなのである。 ゆえに十字架が愛しいと、心から愛を持って主に歌うことができるのです。 他者のために祈ることも、私とあなた、という区別ではない。それは、イエスのとりなしは、「わたしとあなた」というへだたりは何もなく、あなたを私とする祈りであるからです。 主が私のために執り成してくださっているということは、わたしの奥深い所と完全に一つ、つまり、主が私の悲しみや痛みと一つとなられて祈られている。そこに切り離された、私とあなたという感覚は存在しません。 主はどれほどにへりくだられ、ご自身をむなしくし、わたしたちとご自身を一つとするほどに、空になってくださったことでしょう。 貧しい人である(霊的な空である)ことの幸いを、イエスの中に見るのです。 あぁ、あなたが私の内に住まわれているように、私もあなたの貧しさの中に共に住まわせてください。・・ ・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年10月28日 10時15分37秒
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