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イエスの喜びと満足のために☆

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2008年11月06日
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    神の測りがたい神秘は、神ご自身が、愛されたいと望んでおられる恋人であることです。私たちを創造された方が、私たちを存在させている愛への応答を待っておられます。神は「あなたは私の愛する子」と言うだけではありません。神は「あなたはわたしを愛していますか?」とも問われ、私たちが「そうです」と言うためのチャンスを無数に与えてくださっています。

 これこそ、霊的な生活です。私たちの持つ内的な真理に「そうです」と言える機会の溢れている生活です。霊的生活をこのように理解するなら、すべてが根本から変わります。この世に生まれ、成長すること、家を離れ、職業を見つけること、賞賛を受けたり、拒否されたりすること、歩いたり、休んだりすること、祈ったり、遊んだりすること、病気になり、そして癒されること、・・・そうです。生きること、死ぬことさえも・・・。

 これらすべてが「あなたはわたしを愛しますか?」という聖なる問いへの応答を表現したものに変わります。そして,それらの人生の旅路の一つ一つの節目で「そうです」というか、「いいえ」と言うかの選択が生じます。いったん、この霊的な展望を把握することができると、私たちの毎日の暮らしの中心的な役割を果たしてきた区別の多くが、いかに意味を失っていくかを知るでしょう。

喜びと痛みのどちらも、私たちが神の子であることに「そうです」と言う機会になると、両者は異なるというより、より似たものになります。賞を受賞した経験と欠点を指摘された経験の両方が、「愛されている者」という私たちの真のアイデンティティを受け止めるチャンスになると、これらの経験は、異なると言うより、より似たものになります。孤独感と温かいくつろぎの両方が、私たちの父である神が、どのような方かをより全体的に発見することへの招きになると、こうした感情は異なるというより、結びつけるものとなります。・・・・

 最後に、生きることと死ぬことの両者が、私たちの霊的な自己のこの上ない実現に私たちを近づかせるなら、この二つは、この世が信じ込ませようとするような対極的なものではなく、むしろ、神の愛という同じ神秘の持つ二つの面になります。

 霊的生活を生きるとは、一つに統一された現実を生きることです。闇の力は、分裂させ、引き離し、敵対させる力です。一方、光の力は結び付けます。「悪魔の」(diabolic)という語は文字通り、引き離すという意味です。悪魔は引き離し、聖霊は結び付けます。日常生活に進入してくる破壊と暴力を生み出す無数の「分裂」を霊的生活は打ち消します。こうした分裂は、外側と同じく私たちの内側にも存在します。たとえば、社会で最も幅広く目にするグループ間の分裂もあれば、私たちのもっとも身近な内的感情同士の分裂もあります。

 私のうちにある喜びと悲しみの間の分裂、あるいは、私の周りに見られる人種、宗教、文化間の分裂は皆、闇が持つ悪魔的な力にその源を見出します。神の霊、私たちを愛する者と呼んでくださる霊は、互いに結びつけ、全体をまとめる霊です。

 神の霊の臨在を見分けるのに、一致、癒し、回復、和解が生まれているかを確認すること以上に明解な方法はありません。神の霊の働く所はどこでも、分裂は消え去り、外側だけでなく、内側の調和も自ずと生まれてくるのです。

 私が一番言いたいことは、私たちの日常生活の全体を「上から」の視点によって生きるなら、すなわち、神に愛されている者としてこの世に遣わされ、それを生きるなら、私たちの出会うすべての人、私たちに起こるすべての出来事を、死によって支配されない人生を選ぶための、またとない機会とすることができる、ということです。このように喜びと苦しみはともに、私たちを霊的な満たしへと向かわせる通路となります。

 小説家ジュリアン・グリーンが、友人のにあてた手紙の中に、この霊的な洞察を感動的に表してしる箇所があります。彼はこう書いています。

  「多くの聖人による神秘体験を考えてみると、非常に高いレベルにおいては、喜びも悲しみも同じ現象の一側面ではないかとあなたは自問するでしょうそのことについて、ある類比が私の頭に浮かんできました。奇妙な言い方ですか、「極度の寒さは燃え出す」ということです。ほとんど確かなことは、いや、これこそ確かなことですが、私たちは苦しみを通してだけ神のもとにいくことができ、その苦しみは、喜びに変わるということです。なぜなら、最終的にはそれは同じことだからです。」

 このことは私たちをどこに導くでしょうか?それはわたしたちの「もと来た場所」、神の「場所」に私たちを連れ戻すと思います。しばらくの間、私たちがこの世界に遣わされたのは・・・自分の時計時間での喜びや痛みを通して・・・私たちに与えられた愛に対して最高の「そうです」と言い、また私たちの心に刻まれたその「そうです」を携えて、遣わされた方のもとへ帰るためなのです。こうして私たちの迎える死は、帰る時となります。しかし死がそうなるのは、人生全体が、私たちを遣わし、私たちを愛する者と呼んでくださる方のもとへ帰る旅路になる場合だけです。

 「あの世」での生活や「永遠のいのち」という考え方に、大きな混乱が見られます。私は個人的に永遠のいのちを深く信じていますが、それは単に死後のいのちとしてではありません。それは、私たちの「生存時間」の多くの瞬間を通じて、死は満ち溢れるいのちへの扉であることを信じ、聖霊のくださるいのちを自分が受け止めて行くことによってだけ実現します。

 永遠のいのちとは、私たちの生存が終わろうとする間際に人知れず、出現する意外な出来事のようなものではありません。それはむしろ、私たちがそれまでどうであったか、また、どのように生きたかが、この上なく現れるものです。伝道者ヨハネは、このことを次のように簡潔に言い表してします。

 「愛する者たち、私たちは、・・・自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、・・・・御子に似た者になるということを知っています。なぜなら、その時御子のありのままを見るからです。」  ヨハネ第一 3:2

  この見方によると、しはもはや究極の敗北ではありません。それどろか、それは最後の「そうです」となり、わたしたちがもっとも完全に神の子供となれる場所への素晴らしい帰還のときとなります。

 多くの人が死について、こうした見方をしているとはおもいません。満たしの時として市を見るより、可能な限り長い間遠ざけたい、どうすることもできない破綻としてそれを恐れています。私たちの社会が言っていることは結局、死とは最大の敵であり、ついには私たちの意志と願望に反して私たちを打ち負かすものだということです。こう考えると、人生は負け試合、見込みのない闘い、絶望へと向かう旅以外の何ものでもありません。

 私自身は見方は(あなたも同じだとよいのですが)、それとは根本的に異なっています。私はたくさんの恐れや、この世が発する警告によく屈してしまいますが、それでも、私たちのこの地上での短い年月は、私たちの生死の境をはるかに超えて伸び広がる、さらにもっと大きな出来事の一部であると深く信じています。

 私はそれを、時間の中に遣わされた使命(ミッション)、心が沸き立ち、興奮さえもする使命だと考えています。というのは、この務めに私を遣わした方が、いつか私がもとの家に戻り、学んできたことを物語るようにと待っておられるからです。

 私は死を恐れているでしょうか?私はいつも、この世のやかましい声によって誘惑にさらされています。その声はこの「ちっぽけな人生」が私の持っているすべてであると語りかけ、全力でそれにしがみつくべきだと忠告してきます。

 しかし、これらの声を生活の背後に追いやり、私を「愛する子」と呼んでくださる小さな優しい声に耳を傾けるなら、恐れは消え去ります。そして死んでいくことは、最大の愛の行為であり、その行為を通して、尽きることのない愛で包んでくださる我が神の懐で永遠に行こうことができると知るのです。       ★━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━★  

 ナーウェンが問いかける洞察の深さは、いつも内に感じるアーメン、「そうです」という霊的なうなずきを感じる。

 クリスチャンが持つ、永遠のいのちということが、死んでから現されるいのちではなく、十字架の死と復活という毎日の経験の中にすでに始っているいのちだからである。

 「この死にゆくものが不死なるものを着る時、その時書かれている(次の)言葉が(出来事として)起こるだろう。すなわち、「死は勝利に呑まれた。死よ、汝の勝利は何処にあるのか。死よ、汝の棘は何処にあるのか」コリント第一15:54

 ナーウェンが問いかけた永遠のいのちが

私たちがそれまでどうであったか。どのように生きたか。と問うたのは、木、草、わらという自分のわざ行ないがどうであったかではなく(それらは焼き尽くされる)イエスのいのちの中に、その愛のうちにとどまり、はじめの教えの中に、十字架の死と復活の日々の出来事の中に継ぎ合わされながら歩んできたか、ということだと確信します。

やがて死が訪れた時、すなわち、死にゆくものが不死なるものを着るその出来事が、あなたの神への愛の応答、究極の「そうです」という応答であり、まことのいのちの現れとなってあなたの内におこるのです。あなたの内にすでにインプラントされ、隠された続けていたいのちが明らかになる瞬間なのです。なんと胸躍らされる瞬間でしょうか。あなたの上に、出来事として現されるいのち、その扉、道そのものであるイエスの内に今日もとどまることができますように・・・・。

    






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最終更新日  2008年11月06日 09時54分06秒
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