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先日書いた記事で、ブログはカタツムリペースで・・と書いた。 本当にそう感じていた。書き込む気力も失いかけ、こんな状態で何を書く?と、一瞬、しばらくお休みしますと、書き込んだほどだった。(結局すぐに削除したのですが・・・) ブログのタイトル、「イエスの喜びと満足のために」・・・あらためてこのタイトルそのものが、私への問いかけとなった。 主への祈りは、決して長々としてものではないけれど、ただ主に向けて注ぎだしていた。ただ憐れんでくださったとしか言いようがないほど、触れてくださる主の御手を感じて涙が止まらなくなった。 賛美を捧げている途中でも、主の愛にいっぱいになり詰まってしまった。 そして、今読んでいるヘンリー・ナーウェンの本・・というより、彼の日々の思いを綴った日記なのですが、書くこと、語りだすことへの導きと勇気を与えてくれた。 書けないと感じていた、萎れた私の心そのままに、ありのままに書くことへの導き、ストレートな思いのままに・・・。 弱くされた所で、弱さを感じるその場所で、そこにとどまりながら・・いのちのままに・・・・。 ヘンリーは自身の日記の中に書いている。 「時に、話すことでもたらされる実りが、話し手自身の回心であることがあるのだ。 この望みを持って、黙想会に臨み、私の話すことばが、私に働きかけるようにしよう」
アーメン。
もう一つ、彼の日記に出てきたジョージ・ストローメイヤー神父のことばを分かち合いたいと思います。 「神を崇めることにおいて忠実であれ」 イエスを中心にする生き方、それをどのように見つけたらよいか。それは、「神を崇めることに忠実であれ」と。彼は「祈り」「黙想」「観想」ということばを使わなかった。彼は「崇める(adolation)」ということばを使い続けた。この言葉は、すべての注目を、自分にではなく、イエスに向けるべきことを明らかにしてくれる。崇めるとは、自分の心を占めていることから離れ、イエスの臨在の中に自分を置くことを意味する。それは、私のしたいこと、願望、計画を手放し、イエスとその愛にまったく信頼することである。
崇めるということが単に、口先だけのものではなく、握っているものを手放し、イエスとその愛に全く信頼することであることに、アーメン。 ますます、イエスの満足と喜びのために、神を崇め、いのちのままに証することができますように・・・あなたの喜びに、ともに与らせてくださいますように・・・ 祈りの内に主にあってひとつとされた兄弟姉妹の祝福を祈ります。アーメン! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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