カテゴリ:ヘンリーナーウェン
マリアは、自分が「いと高き方の子」の母親になるという、とてつもない衝撃的な知らせを受ける。その知らせは、あまりにも理解を超えたものであり、彼女の素朴な生活を根底から覆し、全くの孤独に追いやられる。夫となるヨセフ、友人、親戚のうちの誰が、彼女の状況を理解できたであろうか。この自分すら理解もできない、もっとも自分に深く関わる知らせをマリアは誰と分かち合えただろうか。 このマリアの新しい人生の始まりに際し、彼女が孤独に置かれることを神は望まれなかった。天使はこう告げる。 「あなたの親類エリザベトも、年を取っているが、男の子を身ごもっている。赴任の女と言われていたのに、もう6ヶ月になっている。神にできないことは何一つない。」 ルカ1:36.37 神はマリアに伝達不可能と思える出来事を分かち合う近しい友をお与えになった。それはエリザベトであり、彼女もマリアと同じように、神の介入を体験し、信仰によって応えるように招かれていた。彼女は、他の誰もできない仕方でマリアに同伴できる人だ。 だからこそ、こう記されていることが理解できる。エリザベトに会うために「マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。(ルカ1:39) この素朴で神秘的な出会いに、私は深く感動している。不信と疑い、実利と冷笑に満ちたこの世界のただ中で、この2人の婦人は出会い、互いに与えられたあ約束を確認しあう。人間的にはありえないことが、彼女たちに起きた。長い歴史を経て約束され続けた救いの計画を開始するために、神はこの2人の所に来られた。この2人の女性を通して、神は歴史の方向を変えようと決断された。 このことを誰が理解できようか。誰が信じるだろうか。誰がそれを自身の身に引き受けるだろうか。しかし、マリアは言う。「この身になりますように」と。そして、すぐに彼女は気づいた。エリサベトだけが彼女の「はい」を肯定してくれるだろうことを。三ヶ月間マリアとエリサベトは、ともに生活し、励まし合い、2人に与えられた母としての生き方を真に受容しようとする。マリアの存在によって、エリサベトは自分が「いと高き方の預言者」(ルカ1:76)の母になることをますます意識してゆく。一方、エリサベトの存在によってマリアは「いと高き方の子」(ルカ1:32)の母になることへ自覚を増してゆく。 マリアもエリサベトも、それぞれ孤立して待ち続ける必要がなかった。ともに待ち望むことができ、それによって、できないことは何一つない神への信仰をともに深めていった。このようにして、歴史への神の最も根本的な介入はコミュニティにおいて耳を傾けられ、受入れられたのであった。 この「マリアのエリサベト訪問」の物語は、友情とコミュニティの意味を私に教えてくれた。私を肯定し、深め、強めてくれる人々によるコミュニティで生きることなしに、私の生活において、どのように神の恵みがすみずみにまで行き渡るだろうか。そうした新しい命を私たちはひとりでは生きられない。神は、このくださる恵みによって、私たちを孤立させることを望まれない。それとは逆に、私たちが新しい友情、新しいコミュニティ~そこは神の恵みが余すことなく成長し、実を結ぶ場、~をはぐくむことを望んでおられる。 エリサベトはマリアが神の母となることを助けた。マリアはエリサベトが御子の預言者、洗礼者ヨハネの母となることを助けた。神は確かに、人を個別的に選ばれるかもしれない。しかし、神は、その選びが成熟してゆくために、私たちが共に生きることを望んでおられる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年11月12日 16時55分45秒
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