カテゴリ:ヘンリーナーウェン
あけぼのそう
今朝、祈りながら天の父なる神に、あるレベルの自己放棄を試みた。大きな葛藤があった。というのは、自分の望みどおりにしたい、自分の計画を実現したい、自分で自分の将来を設定したい、自分で、決断したいという思いを、たくさん私は抱えているからだ。しかし、同時に、神の望まれる仕方で私を愛していただくことで、本当の喜びが生じる事を私は知っている。その仕方が、たとえ、病気や健康、失敗や成功、貧しさや富、拒絶や賞賛のどれであったとしても。 次のように言うのは、今の私にはとても困難だ。「主よ、あなた喜ばすことなら、なんでも感謝して受入れます。あなたの御心がなりますように。しかし、天の父が純粋な愛であることを本当に信じるなら、徐々に心からそういえるようになることも私は知っている。 かつてシャルル・ド・フコーは、私もそうなれたらと願っている霊的姿勢を見事に表現した祈りを書いた。心の底からそのことばを祈ることはまだできないが、時々、その祈りを私は祈ってみる。
「父よ、 あなたの御手の内に私自身を放棄します 私と共に、あなたの望むことをなさってください あなたが何をされようと、あなたに感謝します。 すべてのことに私は備えができています。全部受入れます。 あなたの御心だけが、私とあなたがお造りになったすべてに実現しますように。
これ以上のものを望みません おぉ、主よ
あなたの御手に 私の魂を任せます。 私の心のすべての愛を持って、あなたに捧げます。 私の心のすべての愛をもって、あなたに捧げます。 あなたを愛しているからです。主よ 私自身をあなたに捧げること 御手に明け渡すことが私には必要です。 ためらいもなく、限りない確信を持って。 あなたは私の父なのですから。 」
この祈りを、ときどき祈ってみることはよいことだと思う。これは聖なる人のことばであり、私の行くべき道を示している。自分の努力では、この祈りが決して自分のものにならないことに気づく。しかし、私に与えられたイエスの霊が、それを祈れるように、またその祈りの実現にまで成長できるように助けてくれる。わたしの内的平安は、この祈りを喜んで自分のものにしたいかどうかにかかっている。
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このような祈りは今の私にもできない。・・でも、私にはできません。・・それでいいのだと思う。私の内に願いを起こさせ、実現に至らしめてくださるお方がおられるゆえに、できないわたしごと、主に委ねることができる。 神は時と共に、ご自身の形に、ご自身の思われるようにまで成長させてくださる。 この祈りの根底に流れる、まったき信頼、ためらいもなく限りない確信に至るほどに、主イエスを知りたいと願わされる。それほどに主を知る、すべてを捨て去ってもかまわないほどに、そう、マタイの福音書のあのよい真珠を捜し求めた商人のようでに、最も価値ある真珠を見つけ出した時、全てを売り払ってまで買い求めるほどに価値のあるものであることを知っていた、あの商人のように・・。 主イエスを知ることを求める、 その価値に圧倒されるほどに・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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