カテゴリ:ヘンリーナーウェン
神は私の人生の一部ではなく、人生のすべてを求めておられることが、最近ますます分かってきた。たくさんの時間と関心を神に向かって捧げ、その残りを自分のために確保するというのは充分ではない。頻繁に、しかも、深く祈った後、そこから離れ、自分のための計画を果たすというのでは足りないのだ。 なぜ相変わらずイライラしたり、不安になったり、緊張したりするのか理解しようと努めているうちに、すべてを神に捧げていない自分に気づかされた。特に私は、時間に対して貪欲であると気づかされた。私は自分のアイディアを発展させたり、自分の計画を仕上げたり、自分の願望を満たすための時間をたっぷりとろうと、非常に気を使っている。その結果、私の生活は実際のところ、2つに分離されてしまう。神のための部分と自分のための部分に。こうした分裂がありかぎり、 私の生活は穏やかになり得ない。 神に立ち帰るとは、私の存在のすべて、私の所有するすべてをもって帰ることを意味する。半分だけでは帰ることにはならない。けさ、再び放蕩息子の物語について思い巡らし、父の腕の中に自分を包んでもらう経験をしようとしながら、突然、何もかも完全に捕らえられてしまうことに抵抗を感じた。神に抱かれたいという願いばかりでなく、自分を失ってしまうのではないかという恐れがあった。 神の愛は、妬むほどの愛であることを知っている。神は私の一部ではなく、すべてをお求めになる。私が、親としての神の愛であることを完全に屈服する時のみ、果てしない妨げから自由とされ、愛の声が聴こえ、自分に課せられた独自の使命を悟ることができよう。 これはとても長い道のりになるだろう。私は祈るたびに、葛藤を感じる。神を、私の全存在の神としていくことへの葛藤である。神の愛に全面的に服従することの中に隠された、真の自由に信頼することへの葛藤である。 イエスに従うとは、心の闘いに足を踏み入れ、真の自由を発見する道をたどることだ。その道は十字架の道であり、真の自由とは、死に打ち勝つことの中に見出す自由である。父なる神へのイエスの全面的な服従は、イエスを十字架へと導いた。その十字架をとおして、この世の競争ゲームをものともしないいのちへと導かれた。 イエスは何もかも手放した。宗教的経験による満足さえも。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉の中に、完璧に神に明け渡した姿が垣間見られる。何一つ手元に残しておかれなかった。この完璧な服従によって、まったき一致と自由を見出したのだ。 イエスは私にこう言われる。「来て、従いなさい。・・・・わたしが来たのはあなたがいのちを受けるため、しかも、豊かに受けるためである」(ヨハネ10:10) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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