カテゴリ:ジェシー・ペン-ルイス
神とモーセは、イスラエルをエジプトから連れ出すことができます。しかし、モーセ一人では無理です! 「次の日、また外に出てみると、なんと、ふたりのヘブル人が争っているではないか。そこで彼は悪い方に『なぜ自分の仲間を打つのか。』と言った。するとその男は、『だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか。』と言った。そこでモーセは恐れた。」(出エジプト記2:13-14)。この言葉の矢の一つが神の御手によって放たれて、致命傷を与えました!助けようとしている人々から、こんなにもはっきりと本当のことを言われるのは、つらいことです。苦しいかもしれませんが、もし他の人々の痛烈な批判を受け入れるなら、私たちは自分の生活を主に明け渡すことができるでしょう。主は私たちの生活を整えて、非難の余地の無いものにすることができます。自分の殻に閉じこもって、自分以外の見解をすべて注意深く避ける人は、広い地平線を神と共に「頂上から見渡す」ことは決してないでしょう。 モーセの行いは、彼が助けたいと願っていた人々の目に、このように映っていたのです!もしモーセが自分の行いを正当化していたなら、それは荒っぽく彼を目ざめさせたことでしょう。自分の同胞を打ったことをモーセに非難された人は、自分の行いとモーセの行いとを区別することができませんでした!一方は確かに、普通のけんかでした。他方は、抑圧された人々を解放するという、崇高な理想でした。その無知なヘブル人は、異なる事柄を区別することができませんでした。 いいえ、いいえ、神の子どもよ。あなたのあの行いは崇高な理想によって成されたのかもしれませんが、それを見ていた他の人々は、あなたの行いの中に、この世の精神や肉的な精神を感じ取ったのです。私たちは、私たちの善をけなされないようにするべきです。私たちは、悪の外観を避け、すべての人の目に誉れある事柄を思うよう、命じられています。 同胞と仲直りしようとした時、モーセは「だれがあなたを私たちのさばきつかさにしたのか?」という言葉を浴びせられました。何という大失敗でしょう!私たちの失敗と荒っぽい目ざめのゆえに、神に感謝しましょう。自分に幻想を抱いて生きるよりは、今、失敗して目をさます方が、遙かに良いのです。裁きの座で目をさましても手遅れです。私たちが真理を持つことができないのなら、私たちは裁きの座で損失を被らなければなりません。 その矢は急所を突きました。モーセは恐れて逃亡しました。彼はミデヤンの地に逃げて、放浪者、寄留者となりました。彼は決断を下して、自分の自由意志で十字架の道を取ること--苦難、損失、そしりを受けること--を決意しました。今や、たった二日の内に、しかも自分の愚かさによって、彼の宮殿生活は終わりを告げました。彼は異国の地で放浪者、独り身、寄留者となりました。 モーセの歴史のこの期間に相当する経験が、私たちにもあります。しかし、ああ、私たちは数年間、神の働きの中で自分の無力さを学んで来ました。私たちは、助けたい人々から受け入れてもらえないことを知りながらも、そうしてきました。「誰があなたを私たちの上に立てたのか?」と言われることも、少なからずあります。人々を責めるのはよしましょう(なぜなら、私たちはしばしばそうしがちだからです)。むしろ、私たちの失敗の原因を知るために、神の光を求めましょう。そうするなら、神は私たちを彼の御用にふさわしい貴い器として下さいます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年12月04日 19時03分33秒
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